第7話

『 やがて、まもなく、狼がとんとんと戸を叩いて

「あけてちょうだいな、おばあさま、あたし、赤ずきんよ、おばあさまにお菓子を持ってきたの」と、呼び立てました。

 けれども、ふたりは、うんともすんとも言わず、戸もあけません。すると、は、二、三べんしのびあしで家の周りをぐるぐる歩いてみましたが、とうとう屋根の上へととびあがりました。赤ずきんが夕がたうちへかえるまで待っていて、出てきたら、あとからそうっとつけて行って、くらがりで赤ずきんをたべてしまうつもりなのです。』

 

 

             岩波書店 金田鬼一訳「完訳 グリム童話集」より





 お腹に体重がかかって、担がれているんだと理解する。

 状況を理解しても声は出なくて、ひゅうひゅうと、掠れた呼吸音くらいしか喉から出てこない。

 ――荒い目の間から光が入ってきて、何か袋を被せられたんだと分かったのは少し前。

 担がれて、移動している。

 抵抗したいけど、手が震えて動かない。

 かちかち、聞こえる音が『私』の立てる歯の音だと、漸く気付く。

 そこで、ぐるんと体が回転した。

 背中から落ちて、息が詰まる。

「へ、へへ……」

 乱暴に袋を外されて、髪が袋に引っかかる。

 一気に明るくなった世界に顔をしかめて――見えたのは、白髪の混じり始めた頭。

 そこで、自分が――ガルーが連れて行ってくれた、スミレ畑に乱雑に降ろされたのだと、理解した。

「な……んで……」

「嬢ちゃんも魔女なんだろう?」

 降ってきた言葉の意味を、咄嗟に飲み込めなかった。

「あの女も魔女だったんだ。爪を立てれば痛い痛いと喚く振りをして……魔女だから、皮膚の感覚なんてねぇのになぁ」

 にたにた。

 そうとしか表現のできない笑みを浮かべて、樵のおじさんが笑う。

 その目は妙にぎらぎらしていて、かちかち、歯が合わない音が大きくなる。

「街から離れて女だけで住んでるなんて、魔女に違いねぇんだ。魔女なら、どうせ淫乱なんだ、教会に引き渡す前に、ちょおっと楽しんだっていいだろう?」

 頭が理解を拒む。

 それでも、降ってくる言葉に含まれる真っ黒い感情に、手が、足が震える。

「お上も何を考えてるんだか……魔女はいるんだ、そこら中にいるんだ……なのに、魔女裁判を辞めるだなんて……そんなことをしたら、楽しめねぇじゃねぇか。誰も彼も、安心して眠れないじゃねぇか」

 ――狂人。

 その言葉が、頭に過る。続いて、「逃げないと」が浮かぶ。

 おじさんがどこをどう走ってきたのか、分からない。

 それでも逃げて、ガルーと合流しないと。

 がくがく、震える足にどうにか力を入れる。

 殆ど倒れるように走り出したから、転ばなかったのが幸いだった。

「待てよぉ!」

 背中から笑いの混じった声が響く。

 それに、喉の奥で悲鳴が詰まって息苦しくなる。

 どうにか手を、足を動かす。正しく走れているかなんて、分からない。

 ――走ったことなんて、ないのだから。

 それでも、逃げないと、と思う。捕まってしまえば、きっと。

「や、だぁ」

 視界が滲む。気を抜けば転んでしまいそうで、涙を拭う余裕なんてなかった。

 葉擦れの音。鳥の声。どこか遠くから聞こえる、狼の遠吠え。

「逃げるってことは魔女なんだなぁ、やっぱりあの女共全員魔女だった! 魔女なら、殺されねぇと! 生きたまま焼かれねぇと! なぁ!」

 どっちに走ればいいのか分からない。

 足がもつれて、転びそうになる。

 声はどんどん近付いてくる。

「やだ、やだぁ……ガ、ルーっ……」

 ――たすけて。

 殆ど呼吸のそれが零れたのと、ぐっと後ろに引っ張られるのは同時だった。

 体制を崩した瞬間、掴まれた赤いケープが見える。

 ぎらぎらとした目が、『私』を見ている。

 座り込んだ『私』に、反対の手が伸びてくる。

 やだ、なのか、やめて、なのか、自分が何を言っているのかもう分からなかった。

 髪を引っ張られるのと――がさがさと、茂みが大きく音を立てるのは同時だった。

「ッ――」

 後ろから聞こえた、男の人の悲鳴。

 その瞬間引っ張られる力が緩んで、反対側につんのめる。

 ――ぽすんと、何か暖かいものに当たったのは、そのすぐ後だった。

 背中に回ったのが人間の腕だと分かって、全身が強張る。反射で逃げようとすれば、ぐっと引き寄せられた。

「――ミナ」

 降ってきたのは、どもっていない声。

「ごめん、遅くなった」

「……が、るぅ」

「間に合って……あぁ、違う。ごめん、怖い思いさせたね、ごめん」

 上げた視線の先で、ガルーの黒い目と視線があった。

 見たことがない険しい顔をしていた彼は、へにゃり、と眉尻を下げる。

 その表情に、ぶわりと、一気に涙が込み上げてきた。

 腕を伸ばして彼に抱き着けば、一瞬肩が強張った後――背中に回った腕に、ぎゅっと力が籠る。

 怖かった。

 初めて見る人の悪意も。

 初めて見る人の狂気も。

 逃げられない、と思った瞬間のあの感情を、どう表現したらいいか分からない。

 ぐちゃぐちゃになる感情に息が詰まったのが分かるのか、背中のガルーの腕がゆっくりとリズムを取る。

「ッ……ガルーお前……」

 響くおじさんの怒声から、『私』を庇うように引き寄せられる。

 続くと思った大声は、けれど、「は」と気の抜けた音に変わった。

「お前、なんだよ……その、耳」

「おやおや、この人間狼には、他の人間も同類に見えてるのかい」

 聞こえたのは、笑いを含んだ声。

 ――それから、ひゅっと、空気を切る何かの音。

 とすん、という音の後に、響いた絶叫。

 思わず抱き着けば、ガルーの手が、腕が『私』の耳を塞いだ。

 視線をもう少し上げる。ガルーの灰色の髪、その合間から覗いた――犬のような、動物の耳。

 それがびくりと震えたのは、樵のおじさんがまた叫んだんじゃないかと思う。

 彼は何かを言いかけて、それからまた、ぴくりと震えた耳。

 唇の動きは、エスメラルダさんを呼んだように思えた。

「……お嬢ちゃん、ちっと借りるよ」

 肩を軽く叩いてから、かけられたのはエスメラルダさんの声。

 動けない『私』を余所に、年を経たしなやかな指は、首回りからケープを外す。

 そうして、それをガルーの頭に被せた。

 遠くから、ばたばたという足音が聞こえてくる。

「ロルフ、尾は毛皮で上手く隠しな」

「了解」

 そんな短いやりとりの直後、やってきたのは二人の男性だった。

 彼等はエスメラルダさんと、それから転がった樵のおじさんを見て目を丸くする。

「エスメラルダ、悲鳴が聞こえたが」

「……ハイジが殺されて、犯人を追ってたら孫の悲鳴が聞こえてね。狼か熊だと思ったら――人間狼だった、って訳だ」

「マダムが!?」

「お前さん達、今から街に戻る所かい? なら、憲兵を呼んできてはくれないか?」

「荷馬車に空きがある。むしろ、そいつを連れて行った方がいいだろう?」

「大丈夫かい? 暴れるかもしれないよ」

「縄を持ってくるさ」

「……でも、なんでマダムを」

「――魔女だからだよぉ!」

 おじさんが叫ぶ。

 『私』も、アーデルハイドさんも、エスメラルダさんも、皆魔女だと。

 男性を誘惑して、堕落に誘う。だから魔女だと立件して、ついでに少しばかり楽しんでも誰も咎めない。

 『私』に叫んだそれを繰り返す彼に、やってきた男性達は視線を険しくする。

「エスメラルダさん。安心してくれ、私達が必ず憲兵に送り届ける」

「こんな身勝手な理屈、許されるはずがない」

「そうだ――マダムが魔女なんて、そんなことありえない」

 そう言って、男性のうち一人が森の奥に消える。もう一人は、けらけらと笑う樵のおじさんの頭を蹴り飛ばした。

 突然の光景に、視線を反らすのが間に合わなかった。ガルーが、見なくていいように引き寄せてくれる。

「お嬢さんは……その、無事なのか?」

「無事なものか。膝に酷い怪我をしてるよ……ガルーが間に合わなきゃ、どうだったか分からないさ」

「ああ」

 男性はほっと息を吐くのが聞こえた。

 そんな会話のうちに、もう一人の男の人が戻ってくる。

 手に持った縄で樵のおじさんをぐるぐる巻きにして、それから、二人で引き摺って行く。

 頭を、体を地面や木の根にぶつけても、樵のおじさんは笑い続けていた。

 そのことに、ぞっと体の内側が冷える。

 その笑い声が消えてから、すぐそこでガルーが深く息を吐く。

「……間に合って、よかった……」

「ガルー」

「アッ、アッアッアッごめん、ごめん! よくない、僕、こうするのよくないね! エッアッどうしよ、どうしようエスメラルダ、さっきの人達に見られて、エッ」

「落ち着きな、ロルフ」

「やっ、えっ、でも、カルミナ、違う、ミナの名誉」

「緊急事態だからあいつ等も目を瞑ってくれるだろうよ。ハイジが殺された方が問題だろうしね」

 そう言って、エスメラルダさんは深い溜息を吐く。それから、『私』の頭をぐしゃぐしゃに混ぜた。

 ぐわんぐわん頭が揺れて、そのことに、ほっと息が落ちる。

「……とりあえず、その膝の治療をしなきゃだね。ロルフ、任せたよ」

「はぁい」

 頷いたガルーが、『私』を横抱きにする。いわゆる――『お姫様だっこ』というものだ。

 さっきみたいに背負えばいい、と言っても、ガルーは首を傾げるばかり。

「ミナは僕の前にいたから、これでいいんじゃないかな」

「え、や、まって……よく、ない……」

「え? あっ……まって、もしかして傷に響く!? エスメラルダ、どうしよう、骨とか折れてたらっ」

「それひっくるめて戻らないとどうにもならんね。我慢しな――ミナ」

 肩を竦めて、エスメラルダさんは森の中を迷うことなく歩き出す。

 それに思わずガルーを見れば、彼も『私』を見ていた。

 真っ黒い目が、細くなる。ゴメン、と続いた、柔らかい声。

「できるだけ急ぐから、我慢してほしいな、ミナ」

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