第6話
後ろ手に扉を閉めて、そこに寄りかかる。
吐き出した息は苦かった。
……多分、『私』がいるとガルーはいつまでも話さないだろう。
それは『私』でも分かったのだから、付き合いの長いエスメラルダさんはもっと理解していると思う。
なんでだろう、と胸に広がるのは――多分、落胆。
「……協力する、って言ったんだけどな……」
口から出たのは、ガルーには聞かせられない呟き。
何かできることが、嬉しかった。
――ずっと入院していて、ここ数年はベッドの上から動けなかったから。
どんどん沈んでいく気持ちを、切り替えるために息をひとつ。
テレビで見たような、私が知っている厨房とは違う造り。
カップはどこにあるんだろう、と辺りを見回す。
向かって左側の壁側には煉瓦で組まれた竈があり、鍋が吊るされている。その脇には、薪が詰みあがったスペース。
壁に備え付けられた木の上に、鍋やフライパンのようなものが引っかけられている。
光源は右手にある窓しかなくて、時代、あるいは世界の違いを改めて思い知る。
窓の下あたりには気で作られた棚があって、そこには桶や、壺に見える陶器が置かれている。
その奥にも棚が見えて、カップはそちらだろうか、と踏み出した時だった。
「――嬢ちゃん」
声をかけられて、肩が跳ねた。
どくどく、心臓の音が耳元で聞こえる。辺りを見回せば――窓の向こうに、人の手が見えた。
「嬢ちゃん、さっき会ったろ。俺だよ」
「え、っと……」
震えた足をどうにか動かして、窓側に向かう。
そこから外を覗けば、窓の外にはさっきの樵のおじさんがいた。
ガルーはマルコさん、って言っていた気がする。
「なんかあったのかい」
「え……」
「ガルーと別れてから、俺と入れ違いで小屋に向かった男を思い出したんだ。エスメラルダも戻ってきてただろ。もしかしてなんかあったんじゃねぇか、と思ってよ」
彼の言葉に、どくんと、さっきとは違う音で心臓を跳ねた。
もしかしたら、おじさんが見た人が犯人かもしれない。
「あ、あの……その人、どんな」
「ああ。でも嬢ちゃん、俺を入れてくれねぇか。いつそいつが戻ってくるか分からねぇ」
奥に勝手口があるだろう、と樵のおじさんは言う。
今入ってきた扉と反対側、竈の向こうに、確かに閂がかかった扉が見えた。
「今開けますね」
「ああ。頼む」
おじさんはそう言って、にかっと笑った。
もしおじさんが見た人が犯人なら――今度こそ、ガルーは死ななくて良いかもしれない。
力になれそうなことが嬉しくて、足取りが軽くなる。
閂を外す。外開きの扉を開く。
「お待たせしました」
そう言った瞬間――どうしてか、視界が一気に暗くなった。
ぱたん。
扉の閉まる音に、エスメラルダは息を吐く。
そうして青年に視線を向ければ、彼はびくりと全身を強張らせた。
「いなくなっただろう。話しな、ロルフ」
「あッ……うぅ……」
「あの子には話せないが、アタシには言えるンだろう?」
煙草が欲しいと思いながら、エスメラルダは青年から視線を外さない。
子供の頃から知っている青年は、母親を亡くした頃から『ガルー』と名乗り始めた。
蔑称のそれを使うものじゃない、と言っても、「それくらいでちょうどいいのだ」と繰り返すばかり。
思い出したそれらにもう一つ溜息を吐けば、青年は身を縮める。
「あ、あ、あんまり……え、エスメラルダには、楽しい話じゃ、ない……」
「そんなの今更だろう。『賢い女』をやっていりゃ、そんなの幾らでも目にするよ」
「う、ゥ……カルミナ、が」
「ああ」
「前の、カルミナ、は……『酷いこと』をされた上で……首を、絞められて、いて」
「……嗚呼」
「ハイジ、は、斧で……バラバラにされ、ていて……二人とも、そこのテーブルに、乗ってた」
「……そうかい」
「僕、も、茫然としちゃって……どれくらい、そうしていたか分からないけど、マルコさん、来て、僕を……人間狼だ、と」
「あぁ、例の樵かい。アタシはどうしてたんだい」
「エスメラルダは……例年通り、ヴァルプルギスの準備に、山へ」
「まぁ、そうだろうな」
「……なんで、戻ってきたの?」
そろりと視線を上げて、ガルーはエスメラルダに問う。
古くは、夏の豊穣を祝うための祭り。そこから転じて、春の訪れを祝う日。
街では悪霊や魔女を退散される祝いとして扱われているが、目の前の『賢い女』は古くからの意味合いで準備をしている。
前回は戻ってこなかった。今回は、どうしてか彼女は戻ってきた。
ガルーの疑問を悟ったのか、エスメラルダは息を吐く。
「……やたらと山の鬼火が騒がしくてね。ハイジ一人にするには、少しばかり心配だったのさ」
「鬼火達が?」
「そうしたらお前と、あの子がいるだろう? お前の血統からすれば、鬼火が騒がしいのも納得だがね」
肩を竦めて、エスメラルダは口元に手を運ぶ。
何か考え事をするときの彼女の癖で、ガルーは彼女の緑の目が思考に沈むのを見た。
「……前の時は、気付かなかったけど……でも、多分、ハイジも『酷いこと』をされていたんだと、思う」
「……は?」
「ミナには見せなかったけど、その……えっと……」
言い淀むガルーに、エスメラルダは立ち上がる。
そのまま部屋の奥のベンチ――そこに横たわるアーデルハイドに掛けられたクロスを、がばりと捲る。
十数年を共に過ごした女性は、眠るように目を閉じている。
その喉元には――赤黒く残った、人間の指の後。
「……ロルフ、お前、部屋に入ってからハイジに何をした」
「ぇっ、え、してな……何も、僕っ」
「ああ、違う、今のは言い方が悪かった……ハイジの尊厳を守るために、何かしただろ? この布みたいにさ。それを聞いている」
「アッアッアッ……そ、そそそ、それ、なら……目を、閉じさせて……その、裾、を、戻して」
「……お前さんには頭が下がるよ」
そうして、ミナに見えないように――それ以上彼女の尊厳が失われないように、布をかけた。
青年の気遣いに細めた目を、エスメラルダは一度伏せる。
そうして彼女のスカートを捲り上げれば、背中からガルーの悲鳴が上がった。
「ちょっ、あっ、えっ、え、エスメラルダッ……だ、だ、だ、めじゃないか、そ、そ、そのっ」
「……ロルフ、正解だよ」
「え」
「当たってほしくなかったな……魔女狩りだ」
どもりがちだった声は、ひゅっと息を飲む音と共に消えた。
白い肌に残ったいくつもの爪の痕。中には、血が滲んでいるものもある。
街の魔女狩りは容疑者とされた女性の全身に針を刺したというが、それを爪で行ったのだろう。
アーデルハイドの裾を戻し、エスメラルダは苦い息を吐く。
下半身に残った暴行の痕も、かつて『魔女狩り』の名目で行われていたものだと聞く。
何人かの『賢い女』と――それとは比べ物にならない数の、普通の女性が殺された馬鹿騒ぎ。
熱狂は十年程前に突然醒めて、そのことに安堵していた矢先の今回。
舌先に苦い物を感じながら、エスメラルダは口元に手を運ぶ。
「あれは散々に女達の尊厳を踏みにじって、最終的には殺しちまう。知ってるかい? 海の向こうの国じゃあ、魔女裁判でも生きたまま女を焼かないんだとさ」
「で、で、でも……魔女狩りは、もう」
「そうだ。お偉方がお触れを出して、それが田舎まで浸透するまで十年かかった……でも、やり口は噂に聞く魔女狩りのそれにしか見えない」
「でっ……で、でも、なんで……ハイジが?」
「……そこだよ。アタシなら理解できるが、ハイジを殺そうなんて、正気の沙汰じゃない」
「……ハイジが組合の恩恵を受けているって、知らない人間?」
「ここらでそんな奴がいるのかい? カルミナの世代だって、親から寡婦の見本だ、って話されるくらいだよ?」
それも二つの街で、と言いながら、エスメラルダは腕を組む。
可能性として残るのは、街に定住しない人間だ。
だが、かつてのエスメラルダのような流浪の民の数は減り、そういった人間であればアーデルハイドは油断をしないだろう。
また振り出しに戻った思考に、吐き出した息は苦い。
「……エスメラルダ、聞いてもいい?」
「ロルフ?」
「……僕みたいな生まれや、エスメラルダみたいな流浪の民じゃなく……街から街へ渡り歩くのは、どういう人間?」
「商人?」
「でも、商人も帰る家はある……よね?」
「……そうさね、伝統的に変える国を持たない以外は……羊飼いくらいしかアタシには思いつかないよ。何か、心当たりがあるのかい?」
「……樵は……山があれば、それそこ、移動しないんじゃないかな」
「……ロルフ」
「彼が来た時は丁度向こうの街で大聖堂の建て替えをしていて、誰も疑問に思わなかった。街に木を運ぶのに、人手が足りないくらいだったから……でも、さ」
そろりと、上目遣いで見上げるガルーに、エスメラルダは舌打ちをしたくなる気持ちをどうにか堪えた。
基本的に街に、外からの人間が流入することはない。
けれどもそれは『基本』であり、エスメラルダも、ガルーも『余所から』来たが故に、それを疑問に思うことはなかったのだ。
「……羊飼い」
「え?」
「噂を聞いただけだからどこまで本当か分からないが――『あいつが魔女だ』と教会に訴えるのは、羊飼いなんかに紛れた『目利き』だと、聞いたことがある」
「……その肩書があれば、余計、紛れることは……できる、よね」
「ああ……」
そこで――何か、重い物が落ちる音が鼓膜を叩いた。
くぐもったそれは、この部屋の中からではない。
厨房へと向かった少女が何か落としたのかもしれない、とエスメラルダはガルーを見る。
彼も同じことを思ったのだろう。「見てくる」と、奥の扉に爪先を向ける。
その背中を横目で見ながら、エスメラルダはアーデルハイドに再度テーブルクロスをかけた。
「ミナ、大丈夫?」
あとでリネンを取ってきてやらないと。そう、思った時だった。
「ッ――ミナ!?」
焦ったような、ガルーの声。
そちらに駆け寄れば――いつか孫娘に送った、赤いケープはどこにもなかった。
陽光が差し込む厨房。開け放たれた奥の扉と、そこに落ちたバスケット。
今度は、舌打ちを押さえられなかった。
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