ふたりの七日間

第18話

 部屋に太陽の光が入る。ベッドのタオルケットを握りながら咲綺は寝言を言っていた。


「水葵……だめ、今は――」タオルケットをぐっと強く握った。

 どうかしたのか、と聞こえた気がして、反応するように「こんなところで舐めたら……誰かきたら……」そう言うと、雲が空を覆うかのようにまぶたの裏にある目は暗さを感じ、耳に生温かい感触がした。


 なにか生温かく噛まれている刺激が通る。

 ゆっくりと一方向に這うように耳が舐められ、湿つくような息を肌で感じた。一旦噛む力が抜けると接吻するかのように唇を耳に当て、また甘く噛みだした。


 日の光を嫌がる目がその感触により半分開き片目をずらした。ぼやけた世界には黒く長い髪が重力に引かれ咲綺の体とベッドに落ちていた。

 うなり声を出し「なに……」と呟くと、黒髪の頭が動きだした。


 ぼやけた視界に白い肌が顔をだし、琥珀色の目が露になった。目が慣れ、はっきりとしていくと冷ややかな顔でマルガレーテは小さく舌をだして、透明な糸がその舌から咲綺の耳までだらんと繋がっていた。


 舌を静かに口に戻して、ベッドに固定していた手もどけた。咲綺は理解した。大きく息を吸いタオルケットで顔を隠した。



「朝ですよ」とマルガレーテは言った。

「出ていって」覆いかぶさったタオルケットで声がこもっているなか、吐き捨てるように言った。

「早くしないと学校に遅れますよ」

「そう、なら今すぐ出ていって。着替えるから――」


 マルガレーテはそうですね、と言い部屋を後にした。咲綺は耳をすまして本当に出ていったかを確認した。


 部屋の外で足音が響いていたので、咲綺は顔を覆ったタオルケットを下半身側に投げた。耳を触るとしっとりとした感触だった。


 咲綺は全身を確認するかのように素早く触り不安気に襲われながら、着替え始め服を脱いだ。部位を品定めでもするかのように体のパーツを一つ一つ触れながら着替えた。


 胸から鎖骨にゆっくりと手を伸ばし、そのまま空いた片手の手首まで手を滑らせた。濡れたものを拭くかのように首も手でじっくり触った。視線を真下に移し、見える範囲の体を確認した。

 咲綺は息を吐きながら、目を閉じた。手を頬にあてた。目を開けると何事もなかったかのように着替えた。


 リビングに行くとマルガレーテは制服に着替え、ソファの前にあるテーブルで紅茶を飲んでいた。

 マルガレーテを見た後、ダイニングテーブルを確認すると咲綺の分だけの食事が置いてあった。マルガレーテは先に食べたのであろう。テーブルに母の分がないのに気づき言った。


「ママはもう出かけたの」

「忘れたのですか? お母様は出張で一週間いませんよ。一時間前には出ていきましたよ」


「……そう。忘れてたかも」椅子に座り、朝食を食べた。二人にはどこか壁でもあるような空気だった。牛乳を飲みテーブルに置いた。マルガレーテの方に顔は向けずに正面の壁を見ながら咲綺は口を開く「――なんで、耳を噛んだの」


「何故でしょうね。咲綺さんが求めたから――ですかね」

「私やってほしいなんて、あなたに言った記憶はない」

「そうですね。でも、私に言った記憶はなくても、誰かに言った記憶はあるんじゃないですか」ティーカップの底がソーサーに当たる。


 その音に驚いたかのように、ピクリと眉が動き「それ以外は……耳を噛む以外は何もやってないでしょうね」

「ええ、やっていませんよ」それを聞いて咲綺は少し安心して自身の腕を触った。

「そう――ならいい」と言ったが、ならいいはさすがにおかしいと思い「別によくはないけど……」と付け加えた。


 マルガレーテは立ち上がり「そろそろ時間ですね、学校遅れますよ」

「あっ」と咲綺は言葉を口にして、頭を手で触れた。髪を整えるために洗面所に急いで行き、すぐにマルガレーテと家を出た。



 学校に着き、座ろうとする前に莉穂が急いでやってきた。

「この前付き合ってくれてありがとうね。あの後斗真くんと話したんだ――」


 渋い茶でも飲み、その渋さを人に見せまいと隠すような表情で傾聴した。


「結論から言うと……勘違いだったみたい」それを聞いた咲綺は長く細い息を吐いた。不安もなにも吐き出すように。




「知らなったんだけど北野さんにはね彼氏がいて、それが斗真くんの友達だったの。友達って言っても、とっても仲の良い友達で。トム・ソーヤーと……えーと」言葉が詰まってる莉穂に咲綺は「ハックルベリー・フィン?」と答えをだした。


「そう、ハックルベリー! さっきーが前に貸してくれた本。それぐらい仲がいいの。その子が北野さんの彼氏だったなんてビックリ、聞いた時は一瞬というか数秒ぐらい? 理解できなかったもん。まあ、それで誤解も解けて次からはもう少し思ったことを言い合おうってことにしたの。おかげで、家に帰ったらもう体が軽くってさ、憑き物が落ちたってぐらいに。そこからはあり余った体力で、何かできないかなーって思ったら少し前に貸してくれたヘミングウェイの短編集あるでしょ? それを読んだんだ。ヘミングウェイのイメージってお堅くて、淡々と書かれてるって感じだったけど――もちろん、そうと言えばそう。だいたい、さっきーの貸してくれる本って渡してくるたびにどんどん難しくなってる気が――」


 莉穂が語るなか、咲綺は話を遮り座った「待って。えーと、短編の何読んだの?」莉穂は忘れていたことを思い出したかのように話を続けた「ああ、読んだ話ね。『雨のなかの猫』を読んだよ。さっきーは短編は気になったタイトルから読むといいって言うから、インディアンだったり、キリマンジャロだったり、白い像だったり。そういうなかで目に留まったのは、猫! 犬か猫かと言われれば猫だから猫。読むと全然思ってた内容と違くて難しくて、一回読むだけじゃ理解できなかったよ。あと猫ってイタリア語でイル・ガットって言うのは覚えた」


 話を続ける「あと最後のところは解釈が難しいよね。普段だったら一回読んで終わり疲れちゃうから――でもその日は三回は読んだ。二回目は早めに読んで、三回目は気になるところだけ読んでね。それで、なんとなくだけど短編の読み方がわかってきた! 物語の途中まで何の話か全然わからないけど、最後の辺りを読むと理解できるようになるって、自分が本当に理解できてるかは怪しいけど……それで正直長々とした、最後にいくまでのシーンは必要なのかって思っちゃうんだよね。もっと簡単に手早く伝えられるんじゃないかって。でもそれって、自分と同じだなーって気づいたの。伝えたいことを直接すぐに伝えるなんて難しいこと。ヘミングウェイも同じなのかなって、そう考えてたら眠くなって寝たの。で、朝起きたら――」


 咲綺は莉穂の腕を握り「ご、誤解は解けたってことでいいんだよね?」


「うん。北野さんが彼氏にプレゼントを贈りたくって、それで仲のいい斗真くんに彼が喜びそうなものを選ぶのを手伝ってもらったらしい。北野さんと斗真くんは中学同じで気兼ねなく話せるってのもあるっぽい」


 咲綺は良かったねと言い腕から手を離した。終わらせるように、また後でねと言い会話を切り離した。莉穂から目を離すと、机に向かってひと息つき机から顔を離した。


 外の景色を見ると、遠い空が薄く灰色に染まりかけていた。

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