第17話

 水滴が張り付いた口をつけていないフルーツティーのカップを咲綺は飲み始めた。まるで渇ききった喉を潤すように長く口をつけて。マルガレーテは達観した表情で咲綺の後に続くように飲んだ――ただ、ガラスのカップから口から離すのは咲綺の方が遅かった。



 咲綺はテーブルにフルーツティーを置く「いいでしょ別に。味は変わってないんだから。私を待たせるのが悪いの」

「私が急いだところで、出来上がる時間は関係はないと思いますが――」

「あなたはリンゴがなくたって構わないでしょ」

「ええ、もちろん。悪魔ですからね」

「そうでしょ」



 そう言うとテーブルの端に置いたマンガを咲綺は手に取ろうとするが、水滴のせいで手が僅かに湿ってることに気づく。ハンカチで手を拭かなきゃ、と思った時、そっと視界の端から何かが見えた。



「どうぞ」とマルガレーテはハンカチを出した。


 黒く染色された麻でできたレースハンカチ。外側は正方形の形で囲うようにレースの刺繍が施されている。折り畳まれたレースハンカチはマルガレーテの白い手をより美しく見せた。


「あっ、ありがと」



 咲綺はマルガレーテの手のひらに乗ったハンカチを受け取った、手もハンカチも傷つけないようにそっと。ハンカチが咲綺の胸元付近まで持っていく最中に、ほろりと畳まれたレースハンカチが崩れた。


 レースハンカチは黒色だが、麻で織られているために光を通す。咲綺は丁寧に湿った手を拭う、覆った部分のレースハンカチからは咲綺の手が黒く透けていた。拭いていると、黒いレースハンカチの端っこに黒以外の色が紛れ込んでいた。


 その色はある意味マルガレーテに似ていた、黒の中に輝く色、闇夜に光る明かり――金色のイニシャルが刺繍されていた。咲綺は気になり、金色のイニシャルを見る。



「……M?」と咲綺は言った。

「ああ、それですか。私のイニシャルですよ。物は大切にする主義なので」

「へえ――案外かわいいところ……」



 咲綺は思った――マルガレーテの頭文字であれば確かにMではあるが、この名前は出会った時に本から取った名前。実は彼女に別の名があったのか――そう思った。



「あなた出会った頃、名前はないって言ってなかった? あれは嘘なの」

「嘘ではありませんよ。あの時はありませんでしたから」とマルガレーテ言う。

「あの時――昔はあったってこと?」

「それはそうでしょう。昔話をしたりしたじゃないですか、名前がないなんてことはありえません。人間が紡ぐ時の中で、私もそこに入りこんでは名を持っていたのですから」


 マルガレーテの言葉に納得はいくが、不満もあった。咲綺は金色のイニシャルをなぞる。


「――そう」

 それを聞いたマルガレーテは微笑みながら言う「嫉妬ですか?」

「そんなわけないでしょ……」

 イニシャルの部分を潰すように内側に折り込んでいった。咲綺は折り畳んでマルガレーテに返そうと手を動かしてるとマルガレーテは言った。



「よければハンカチ、咲綺さんに差し上げますよ」

「あなたのなんでしょ。物は大切にする主義なんじゃなかったの」

「ですから、差し上げると申したのではないですか。私のイニシャルが入ったハンカチを贈る――と言ってるのですよ」


 咲綺は肩をすくめる「なに? よくわからないこと――」

「相手にハンカチを送るということは、愛の証。物語で例えるのならウィリアム・シェークスピアの『オセロー』とか知らないのですか?」


 折り畳んだ黒のレースハンカチを見て咲綺はゾクッと身震いした後に、レースハンカチをテーブルに落とした。手とレースハンカチが反発しあうようであった。


「……ちょっとやめてよ――気持ち悪い……」咲綺は自分の腕を触る。



 ニコニコとしながら、マルガレーテはテーブルに落ちているレースハンカチを回収した。

「ふふっ、そんな嫌がらなくてもいいじゃないですか――傷つきますよ」

「傷つくなんてことないでしょ、あなたには」

「ええ――」



 買ったマンガを咲綺は読む、程よい雑音が耳に入って孤独であることを忘れさせる。マルガレーテがいたところで、砂漠の砂に埋められたような孤独は癒えない。マンガを読んでいる時――マンガに限らないが著者との対話が含まれる。


 ページをめくるごとに言葉を伝わる、ページをめくるごとに感情が伝わる……そうやって、読み進めていくとひとりぼっちではないと確信に近いものがやってくる。咲綺は瞬きをする――回数など覚えてないぐらい。


 外に面した窓からの日差しは角度を変えていた、僅かにざらつきがあるモノクロの紙も片側にだけ偏って、残りのページも少ない。最後のページをめくって――閉じた。変わらず孤独を感じた、読み返したところで同じことを語るだけ、記憶を呼び起こして繰り返す景色と何ら変わりない。咲綺はテーブルにマンガを置いた。


 置いた瞬間、あるいはその前から流れていたのかもしれない――ピアノの音が下の階から鳴っていた。駅にはストリートピアノが置かれている、そこからピアノの音が流れていた。



「Das Veilchen――ですね」とマルガレーテは言った。

「だ、だす? ……なんて?」


 聞きなれない言語を流暢に言うもので、咲綺は困惑したような顔つきで二度見してマルガレーテを見た。


「『すみれ』ですね、と言ったのですよ」

「……だったら最初からそう言ってよ」

「誰が作曲したのか知ってるのですか?」



 じいっと咲綺はマルガレーテの顔を見る。マルガレーテはにこやかな顔をしながら、あまりにも咲綺が見つめるせいか首をかしげた。釣られるように咲綺もかしげる。



「聞こえてましたか?」

 マルガレーテの質問に咲綺は答えることはしなかった。それから数秒見つめると咲綺は口を開く。

「――ベートーヴェン」と咲綺。

「モーツァルトですね」とマルガレーテ。

 フルーツティーを一気に飲み干すと咲綺は「帰る」と言った。

「もう十五分ぐらい居てもいいですのに」

「帰るって言ったら帰るの」



 マンガをショルダーバッグに入れて、サングラスを掛け、ショッパーを持って、ガラスカップの飲み干したフルーツティーをカフェに返しにマルガレーテといった。三階から二階にエスカレーターを使って降りる、『すみれ』を弾いている人が目に映った。


 正方形のベンチの近くに置かれたピアノの周りには数人が弾いている人を見ている。スマホを構えて、動画――あるいは写真を撮って。



「面白いところに置かれていますね」とマルガレーテは言う。

「うん、当時は話題になってたりした。いろんな人が弾いてネットに上げてたりね。でも……」

「……でも?」

「今月だったかな、終わっちゃうらしい」

「もったいないですね」


 咲綺は顔を正面に向ける「そんなものでしょ。いつかは終わっちゃうの」

「ええ、変化は訪れるもの――ですから」


 エスカレーターを降りて駅から出て家へ向かった。まだ夕方にもなっておらず明るいが一日の満足感はあり、午後の数時間が久々に長く感じた。



「はああーーー、じゅうじつーーー」

 咲綺は部屋着にすぐさま着替えて、リビングのソファにもたれかかりながらマルガレーテに頼んだ。

「牛乳とお菓子なんでもいいから」

「はいはい、待っててください」

 牛乳を入れながらマルガレーテは言う「充実したようで良かったです」

「そうね、これがあなたじゃなくて……」

 無意識にポロっと出てしまった。普段悪態をマルガレーテについてるとはいえ――むしろそのせいで反射的に言葉が出てしまった。


「水葵さんとだったら――ですか?」顔色一つ変えずにマルガレーテはクッキーを箱から出す。

「……そこまでは言ってないでしょ」

「言ってるのと同然ですよ。私は気には留めませんが」

 諭されたような気分で居心地が悪くなり、今更謝れなかった。マルガレーテが牛乳とクッキーを持ってくると、咲綺は無言でクッキーを食べて、口に残ったクッキーのカスを牛乳で流し込んだ。


「……だって、しょうがないじゃん」

 咲綺は小さく呟いた。

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