第三十六話 ナメんじゃねぇよ

金時に向けて放たれた熊童子の右拳。


その攻撃をギリギリのところで躱しながら、交差するように金時の剣が滑り込んだ。


それは熊童子の首から入り、胸の前を通過し、右の脇腹辺りから飛び出した。


同時に…


刀が通過した場所から飛び散った鮮血。


それは雨のように金時の顔を叩き、金時の瞼を僅かに狭めた。


金時

『勝ったのか…!?

いや…今の手応えは…』


目を見開く事の出来なかった金時の視界は、いったいどれ程に狭まっていた事だろう?


熊童子の身体から飛び散るであろう血液を予想出来なかった事が悔やまれる…


直後に金時に迫る危機…


半開き状態になってしまった金時の視界が、【それ】を捉える事は不可能だった。


…次の瞬間…


金時を襲った強い衝撃。


それは金時の顔を左から叩き、右方向へと弾き飛ばした。


景綱

「金…時…!!」


金時にはきっと、何が起きたのかも理解出来なかった事だろう。


一瞬にして意識を飛ばしてしまったのだから。


怪しい手応えを覚えた時に嫌な予感はしていた事だろう。


何が来ても耐えるつもりだった…。


それでも金時の意識を刈り取った【それ】の正体…


それは、熊童子の右拳による攻撃だった。


金時が一度は躱したはずの攻撃。


それ故に金時の意識から外れてしまった攻撃。


熊童子は金時の顔の真横を真っ直ぐに振り抜いた右の一撃を、反撃をくらった直後に大きく右に開いていた。


同時に左足を左方向へと大きく踏み込み、その体重移動を利用して右拳を横凪ぎに振り抜いたのだ。


熊童子

「…くっ…!!

…くかかかかかッ!!!

私の身体なら斬れると思ったか!?

…ナメるなよ…?

私の全身は此れ鋼なり…!!」


出血はあった…。


…しかし浅すぎた…


良く見れば出血量も少ない。


金時の攻撃は、恐らく熊童子の体表を傷付けた程度のものに過ぎなかった。


鬼に傷を負わせる事それ事態が評価に値する。


大の大人でも、鬼を傷付けるのは難しい。


それが防御力に高い評価のある熊童子なら尚更…


そんな熊童子が傷を負う事など、彼自身でも予想出来なかった事だろう…。


これは熊童子や他の鬼達の身体の丈夫さを知らなかった金時の、その経験値の低さが招いた結果だった。


熊童子も、きっと最初は無傷で勝つつもりでいた。


だが、金時の攻撃を受け…


そこに危険性を垣間見たからこそ、金時に対する警戒心を強めた。


金時を相手に自分の方が格上と言う自尊心さえ捨て…


苦汁を舐めてでもでも勝つ事を考え…


そうして選んだ作戦の結果がこれだった。


熊童子

「だが…何と言う事だッ!!

…着物が斬れてしまっておるではないか…!

…これでは使い物にならぬ…!!」


このような戦地にまで身に付けて来た着物。


それを相当 気に入っていたのか?


自分のケガの心配以上に、ボロボロになってしまった着物を見て苛立つ熊童子。


引っ張ったり、押さえたり…


色々やってみたが、当然着物は元には戻らない。


無駄な事をしている自覚はあった事だろう。


それでも気に入っていた着物を今すぐ元に戻したいと願う彼の心が、無意味で非理論的な行動を取らせていた。


無駄な事をしている事に直ぐに気付き、それまで傷付いた着物を弄っていた手を放す。


そして熊童子が次に選んだ行動は…


着物が傷付いた【原因】を見付け出す事だった。


少しの間 辺りを見回して、数秒後に景綱を見付けた熊童子…


熊童子は景綱と目が合うと、みるみる内に表情を険しく変貌させていった…。


…それは正に鬼の形相…


顕になった二本の角は彼の怒りを現すように天を突き…


歯軋りを立てる口から覗く鋭い牙は景綱の血肉を欲していた…。


ゆっくりと歩き出し、景綱の元へと向かう熊童子。


その途中で地面に刺さったままの自分の薙刀を手に取ると、地面を抉り取るように乱暴に地中から引き抜いた。


熊童子

「…貴様さえ来なければ…!!

あの人間の子供は最初の一撃で死んでいた…ッ!!!

こんな事にはならずに済んだのだッ!!!」


熊童子は薙刀を構え、大きく振りかぶった。


既に致命傷を負っている景綱を睨む熊童子の瞳。


そこに満ちた殺意。


その殺意を感じ取った景綱は、自分に残された武器を手に取った。


景綱

「…せめて…金時だけでも…!!

…郷長がこの状況に気付く…

…その時間稼ぎだけでも…!!」


熊童子

「無駄な悪足掻きだ…人間ッ!!!」


手元に残った僅か数本の苦無を手に、最後まで金時を守る事を考えた景綱。


しかし、天に向けて掲げられた熊童子の薙刀は狙いを定め…


次の瞬間にも、景綱に振り下ろされようとしていた。


熊童子

「死ねッ!!!

弱く愚かな人間よッ!!!」


正に今、景綱の命が奪われようとしていた…


その時…


天から落ちて来た、一筋の雷光…。


そして大気を引き裂く雷鳴…。


一瞬の出来事だった…


遠くで見ていたのならともかく、それを目の前で見た者はこう感じたはずだ…


…「何が起きたのか分からなかった」…


…と…


何も分からない内に地上を叩いていた雷は地面を深く抉り…


その衝撃は景綱と熊童子を大きく引き離していた。


熊童子

「なッ…何が起きたのだッ!!!?」


いつの間にか自分の手から離れ、その姿を消してしまった熊童子の薙刀。


代わりに目の前に現れたの【何かの燃えカス】。


まだ火が残っている棒状のそれは、良く見れば薙刀のようにも見える。


徐々に自分の身に起きた事を理解し始めた熊童子。


「自分は雷に打たれたのだ」と覚った熊童子の心臓は鼓動を早め…


後から遅れて恐怖が心を支配し始めた…。


そして…


いつの間にか後方へと引き下がっていた自分に気付く…。


熊童子

『…下がるつもりなど無いのに…

…足が…止まらない…!!』


その恐怖を理解できる者などいない。


ギリギリのところで難を逃れた者だけが理解できる恐怖。


生きている事に対して感謝さえ感じる。


そして、生きている事を不思議にさえ感じる…。


回避不可能だった災難…。


では何故、熊童子は感電しなかったのか?


熊童子にとって最大の幸運は、雷が落ちたのが薙刀を振り下ろす直前だった事。


天から落ちて来た雷は地面を叩く直前、熊童子の薙刀を貫いていたのだ。


攻撃を行う直前、筋肉は一瞬 弛緩する。


雷はその瞬間に落ちた。


筋肉が弛緩したその一瞬の間に落雷を受けた薙刀は大きく弾かれ、薙刀に通電した電気は熊童子に到達する前に彼の手を放れたのだ。


熊童子

「…これは…まさか…!!」


混乱する熊童子の脳は、目の前で炭のように成り変わった自分の薙刀を見詰めながら次の事を考えていた…。


これは自然現象ではなく、誰かの意思で起こされた可能性…。


ただ恐かった…


自然現象を操れる力など、恐怖以外の何者でもない。


自分を遥かに凌駕する何かが迫って来る…


今すぐその場を離れなくてはならない気がして、熊童子は心の底から怯えていた。


熊童子

『…一旦退くか…?

…しかし…!!』


恐怖に従うも、抗って戦うも勇気が要る。


恐怖に従って退けば自尊心が傷付くし、勇気を必要とする相手と戦えば身体が傷付く。


形は違えど、どちらを選んでもそれぞれの傷が付く。


そして…


決めずに留まる事にも勇気は要る。


圧倒的で暴力的とも言える【運命】に身を任せるからだ。


自分の意思と関係ないものに従わなくてはならないのは恐怖だ。


それが自分に危害を加えると言うのなら尚更…


熊童子

『…ダメだ…恐ろしい…!!

…私には…決められないッ!!!』


恐怖が…


一歩ずつ近付いて来るのが分かる…


背後から…


一歩…


また一歩と…


鬼である熊童子がここまでの動揺を見せるほどの恐怖を与える【その存在】は…


熊童子に確実な死を与えるために、自らの【刃】を研ぎ澄ませていた…。


金時

「…余所見してんじゃねぇよ…。

…俺はまだ生きてるぜ…。」


いつの間にか立ち上がり、熊童子の背後を取っていた金時。


その手には景綱から受け取った刀と…


途中 手放してしまった、金時自身の刀が握られていた…。


熊童子

「…二刀…!?」


自分の背後に立つ金時の姿を見た時…


熊童子は確信した…。


金時の体表を走る【電気】…


金時の髪を不自然に逆立たせるもの…


自身の腕に残る痺れ…


そして今の金時の姿は…


熊童子の瞳に残像のように焼き付いて離れない、その【存在】と非常に良く似ていた…。


金時

「…ナメんじゃねぇよ!!

…俺は役目も義務も果たさずに…

呑気に死んだりしねぇからよ!!」


それこそが…


自分の感じる恐怖の正体だと…


この時 熊童子は、やっと気付けたのだ…。


熊童子

「お前…ッ!!! お前はッ!!!」


俯き加減の金時の眼光が熊童子を貫く。


両手に刀を握りながらも、ダラリと力無く下げられた両腕。


無駄な力みの無い全身の筋肉。


その状態の金時の右足が一歩前に出た時…


熊童子は自分の敗北を覚った…。


自分の歩幅で一歩踏み出しただけのはずの金時の身体は青白く光り、放電現象と共に一瞬で熊童子の懐へと移動した。


次の瞬間…


熊童子の眼前を左右に数回行き来した光り。


その光りが何を意味したのか…


それを理解する前に熊童子の意識は失われていた。


ゆっくりと倒れていく熊童子の身体。


そして…


熊童子の残された頭髪は見事に斬られ、まるで日本人形のような おかっぱ頭に変えられていた…。


金時

「気持ち悪いくらい長かったからついでに斬ってやったぞ…!

まぁ、俺も人の事言える長さじゃねぇけどな。」


それは金時から熊童子への罰。


まだ生きている金時に止めも刺さず、景綱を殺そうとしたその侮辱への、重い重い罰だった。


金時

「誰も死なせねぇ…!!

例え相手が鬼であろうとな…!!」

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