33 北の漁場「ニラス・イレス」

 結局、カヤさんが名前を考えてくれることに決まったはいいが、流石にすぐには思いつかないとのことで、俺は自分がなにをしてしまったのかもわからないまま、先ほどの大広間から移動を促された。


 案内された部屋の中は、相変わらず白を基調とした配色であるものの、壁や机の上には何らかの資料らしき紙や地図らしきものが貼られており、部屋の隅にはベッドもあった。彼らはここを診察室と呼んでいるらしい。


 俺の座った丸椅子の前には、アーフルさんとシャラさんだけが立っている。カヤさんと師匠さんは別室で待機している辺り、おそらく今からカウンセリングというものが始まるのだろう。


「さて、カウンセリングと言ってもやることは簡単だ」

「あなたはただ、質問に応えてくれればいい。ですよね、院長」

「その通り」


 二人はそんなやり取りを交わしながら、それぞれの定位置らしき場所についている。アーフルさんが白くていろいろな器材の乗った長机の前。シャラさんがそのさらに向こう側、奥まった一人用机の前。


 彼らはそれぞれが手元に紙のようなものを用意して、鳥の羽のようなものを黒い容器の中へ付けた。

 相変わらず、記憶が蘇る気配はないが、俺にはそれらの物品が、一種の筆記用具であることがわかる。

 おそらく名前は、羽ペンとインク壺。どこかで見たことがあったのだろうが、記憶の無い俺に、その答えはわからない。


「では、前提事項を確認していこう」


 そう言ってアーフルさんが取り出したのは、すでに何かが記されている紙だった。一枚の板に留め具のようなもので固定されているらしく、彼が手元に持ってしまったおかげで、こちらからは覗き込むことはできそうにない。

 最も、覗き込んだとして内容が分かるとも思えないが。


「君は記憶喪失ということだったね。具体的にいつからそうなんだい?」

「……というと」

「今分かる限りでいいんだ。一番古い記憶はなんなのかな?」

「ああ」


 一番古い記憶……と言えば、浜辺で目を覚ました時になるだろうか。

 カヤさんに助けられ、暖かいスープを振る舞われたときだ。

 俺の身体は波打ち際で小舟に乗って倒れていたらしく、何種類かの上着と、錆びた刀を持っていた。


「……ふむふむ。その上着や刀の特徴は?」

「えっと、確か今朝方、師匠さんがあなたに届けたと」

「確かに受け取ってるよ。院長にも見せたはず」


 シャラさんが補足的にそういうと、アーフルさんも思い当たるものがあったようだ。そこから少しだけ交わされた会話から察するに、夜明け前に師匠さんが諸々の物品を届けた後、シャラさんが物を受け取ってくれたらしい。

 アーフルさんはぼそりと「やはりすばらしい」と呟いて俺の方へ向き直る。


「なるほど。そういうことであれば、私は君の素性に心当たりがある」


 そう言ってアーフルさんはシャラさんに羽ペンの先を向けて合図をした。

 シャラさんは意図を組み取ったらしく、壁にかかっていた地図へ向けて、その長身を目一杯伸ばして、テーブル越しにそれを手に取った。

 アーフルさんは羽ペンをインク壺に突っ込んで両手を空け、薄茶色で色褪せた地図をそのまま受け取る。


「この地図は少し新しすぎるが、位置関係を把握するには丁度いい」

「右上の方に陸地がごっそり削れたみたいな湾があるでしょ。エイビルムはそこの左下にあるはずだよ」


 そう言ってシャラさんが差したのは、大きく陸地が広がった地図の右上。

 灰色で示された海の近くにある、大きくえぐれたような陸地だった。

 無論俺に地理に関する知識は無いが、随分と不自然な形をしている。

 この場所が先ほど言っていた湾であり、エイルスクレイという場所なのかもしれない。


 大きな地図であるためか、特別町が描かれたりはしていないらしいが、湾の左下には、何らかの文字が記されていた。

 俺はこの文字を読むことはできないらしいが、話の流れから察するに、ここがエイビルムの位置なのだろう。


「海の先については記されていないが、東にはエイルス時代の遺跡群があり、上の方にはまた別の街がある」


 そう言ってアーフルさんが指さしたのは、エイビルムへ続く川を遡って、山岳地帯を抜けた先。

 谷のように海へむけて広がり、そこそこの広さになっている平地のような場所だった。

 カヤさんの家の近くと同じように、川はここでも分かれているらしく、海へ向かって一本の川らしき灰色の線がくっきりと通っているのが見える。


「名前は、ニラス・イレス。港町……というよりは漁場だね」

「この町、漁はしてるけど、物流はやってないからね」


 ニラス・イレス。変な名前だと感じてしまうのは、俺が記憶を失っているせいなのだろうか。

 なんにせよ、馴染みのない名前に思えるが、話の流れから察するに、ココが俺の故郷である可能性がある……ということなのだろうか?


「ただ、残念ながらニラス・イレスは主に海で漁を行っているわけで、獣皮の衣類や大きな武器を使っているような話を聞いたことはない」

「ただ、あの海の流れ的に、ココから流れ着いた可能性は高いのよね」

「なるほど……」


 二人の話から察するに、おそらく俺の故郷はこの街ではないということなのだろうが……だったらどうして今の話をしたのだろう?

 そんな風に浮かんだ素朴な疑問の答えは、すぐさま続いたアーフルさんの言葉で明らかになった。


「ひとまず君の故郷はここであるということにしよう」

「……ああ。なるほど」

「その様子だと、察してくれたみたいね」


 つまりは、冒険者ギルドという場所に、紹介状を書くにあたって、俺の身元を用意してくれるということか。

 一瞬、そんなことをして何らかの罪に問われないのかと思ってしまったが、わざわざソコをつついてやりづらくする必要もなさそうだ。


「では前提も確認できたことだし、今から一緒に書類を作っていこう」

「ま、ほとんど院長の話に合わせてくれればそれでいいから」

「助かります」


 ひとまず身分を手に入れるために、協力してくれるというのなら、わざわざ断る必要もない。とはいえ少し親切すぎるような気もするが……


「それから、できればこれからも定期的に来てくれると助かるよ。もちろん、診察料はタダでいい」

「……どうしてそこまで?」


 やっぱり、少しいたたまれなくなって、一つだけ聞いてみることにした。

 もちろん、意識を取り戻してからであったひとが、何の対価もなしに親切にしてくれているのは、今に始まった事ではないが……


「私はこの地域について調べているからさ。君自身は、どこから来たのかわからなくて、これからも調べていくことになる。だったら君のような存在は、私にとって素晴らしき友になり得るだろう」

「まどろっこしく言ってるけど、つまりこれからいろいろ調べていく中で、この近くのことが何かわかったら教えてってことだね」


 なるほど。もちろん彼らがすべての意図を話してくれたとは思えないが、ある程度納得はできるような気がする。

 彼らは根っからの研究者であり、ある意味では一種の調査員として、俺の存在を利用しようとしてくれているのだろう。


「そういうことなら、任せてくれ」


 しっかりと理由のある親切は嫌いではない。これは何か根拠があるわけではないが、彼らは信用できそうだ。

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