32 言葉選び
「名前を……ですか」
提案を受け取った直後から、隣にいるカヤさんは考え込み始めてしまったが、俺にとってはありがたい申し出でもあった。
正直なところ、失った記憶を引き出せるような手がかりに心当たりはないし、今回のような初対面の場で自分のことを何と言えば良いのか、悩んでいたところだったからだ。
「俺は、いいと思う。ひとまずの名前を貰えるなら、ありがたい」
だから俺は思ったことをそのまま声に出した。
目線は隣で悩んでいるカヤさんに向けつつ、アーフルさんの提案に乗ってほしいと伝えてみる。
彼女もこちらの意図を汲み取ってくれたらしく、目線を合わせて唸ったが、その表情はなんとも絶妙だ。
何か気になることがあるのだろうか。
「あなたは、本当の名前があるなら、そっちで呼んでほしくはないですか?」
「それは……そうかもしれないが」
確かに、後から本当の名前が分かってしまったら、せっかく付けてもらった名前も無駄になるかもしれないが……
現状、何も手がかりの無い状態で、記憶を取り戻せる様な気はしていないというのが正直なところだ。
もちろん、俺だけの問題ではないのはわかっているが……どうするのが良いのだろうか。
「ん、だったらパパっと私が付けちゃいましょうか。いったんは偽名ってことにして、後から本名がわかったら、そっちに切り替えればいいじゃない?」
師匠さんは丁度振る舞われたお茶とやらに口を付けていたところだったらしい。俺が目線を向けてみると、食器を置いてそんな提案をしてくれた。
それ自体はありがたいはずなのだが、なんだろうか、この胸の中に湧き出るような微妙な気持ちは。
「ふっ、冗談よ。いくら偽名って言ったって、あなたもどうせなら、カヤちゃんの付けた名前が欲しいでしょう?」
「え、えっと……」
「そ、そうなんですか?」
否定するのも違う気がして、どちらとも答えずに口ごもったら、小さく質問の声が上がってしまった。振り向いてみれば、先ほどよりも少し晴れたような表情がカヤさんから向けられている。
「…………」
何も言わずに彼女の青い瞳を覗き込んでいると、晴れた表情が少しずつ不安に満ちていくのが分かった。おそらく、このまま見つめ合ってみるのは愚策だろうが……結局俺はどうしたいのだろう?
「俺は……」
そうは思うものの、答えはほとんど決まっていた。
「あなたのことを信頼している。できるなら、あなたの名前が貰いたい」
俺が心に正直な言葉を述べたら、後ろからカランと音が響いたのが分かった。とっさに振り返ってみると、師匠さんがティーカップに顔を埋めるようにして、固まっている。
ローテーブルの横にいたシャラさんは「ほう」と呟きながら顎に親指を沿わせているし、アーフルさんは、前のめりで腕を組んで口元に微笑を浮かべている。
「だったら、決まりだね」
アーフルさんがそう呟いたところで、目線をカヤさんへ戻してみると、彼女は顔を伏せていた。気のせいか、その白くきめやかな頬は、少しだけ赤く染まっている気がする。
「わ、わかりました。今から考えるので、ちょっと待ってください」
「わ、わかった」
なんだろう、この微妙な雰囲気は。俺は一体何をしてしまったのだろうか。
「性別が逆じゃなくてよかったわね」
「いやいや、あねさん。婿入りって線もありますよ」
いったい何の話なのだろうか。目線で説明を求めても、微笑を浮かべられるだけで答えてくれない。アーフルさんも愉快そうにしているのに、唯一カヤさんだけが膝の上にうずくまってプルプルと震えてしまっている。
「ちょっと……しばらくまっててください」
いや、本当に、俺は一体なにをしてしまったんだ……?
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