お凛

 奪衣役の女はその一部始終を見て、恐怖を抱いているようだ。


貴方あなた様は……」


 その声を聞いた羅刹は冷ややかに女を見た。


 元来がんらい奪衣役だつえやくとは年老いた女か女鬼が務めてきたものだった。だからこそ、奪衣婆だつえばなどと言う俗称があるのだが、目の前のこの女は若かった。生者であれば十七、八か、それよりいっても二十は超えないであろう。


 羅刹の視線に女は怯えるように目を背ける。 


 女は地獄の官吏らしく肌は白い。しかし、顔や身体の至る所に青い痣がある。髪の毛の中には砂が混じって実に見窄みすぼらしい。その姿は確かに醜かった。しかし、それだけだった。


 羅刹は常々思うことがあった。地獄の官吏であるならば、亡者に畏怖されるべきであると。しかし、この女の容姿からはそんなもの微塵も感じられないのだ。そこにあるのは嫌悪と脆弱さだった。その醜くか細い容姿ではどちらが亡者かわかったものではない。


 ゆえに羅刹は憤然と名乗った。


「わたしは獄卒の羅刹である。本日より懸衣役を閻魔王よりたまわった」


 女は阿呆のように口をあんぐりと開けた。そして、そのまま微動だにしない。


 何度か羅刹は声をかけたのだが何も反応せず、次第にそれは怒号に変わる。

「おい! 聞いておるのか! お前の名は何だ?」


 女はハッと我に帰ったようで大慌てで頭を下げた。


「わ、わたしは、おりんと申します。え、閻魔王より奪衣役を賜っています」


 羅刹は頷いてすぐさま、亡者の群を指差した。


「お凛、お前の無能さは重々承知しておるが、これより先休むいとまなどないと思え、この亡者のむれを宮殿へといざなうまでは瞬きすることすら許さん」


 羅刹の声は亡者の郡まで轟いたのだった。


 お凛はその声に怯えながらも、「はい!」と力強く返事をするのであった。

 

 羅刹もかつてこれほどの亡者の群勢を相手取ったことなどなかった。不眠不休で十六日の間、亡者の列は断たれることはなかったのであった。


 羅刹も流石にこれには呆れ返って、現世の人間は滅んでしまったのではないかと本気で思った次第である。


 亡者の被服を剥いでは懸け、剥いでは懸け、着物問屋でもあるまいにその単純作業を続けていると真っ白な着物の形をした蝶々が飛び回る幻覚を見るほどである。


 列が乱れぬことを確認してからは牛頭、馬頭を宮殿へ帰し、お凛と羅刹が二人で亡者の相手をしていたので、実質二人でやったに等しい。


 まさに末端職というべき雑用である。


 もう二度とごめんだと羅刹は思いながら、ただいま毘藍樹びはんじゅの隣の小屋の畳の上に寝転がっていた。


 羅刹は近くに端座たんざしているお凛の姿を一瞥いちべつした。


 それにしれもこの新米は思いの外に根性がある。


 小言も言わずによくやり通したものだと思う。不眠不休の職務であるし、無論至らぬ点は多々あったのだが、それでも想像していたよりもはるかに良かった。


 もちろん、一人ではまだ亡者を従わせることは叶わないだろう。しかし、職務を真っ当に行おうという気概は感じられた。


「あの、羅刹様」


 羅刹が物思いに耽っていると不意にお燐はこちらに声を掛けてきた。


「何だ?」


 お凛は俯きがちに言う。


「羅刹様はどちらからいらしったのですか?」


 羅刹の眉根がぴくりと動いた。そして、口を開き掛けて、止める。


 自分の前役職を言うのを避けたのは自らのくだんない自尊心だと羅刹は恥じた。


「前は無間地獄の獄卒である。まあ、お前のような新参者には心得ないかもしれないが、最下層の地獄のまとめ役をしておった」


「それは、とても尊きお役目をされていたのでございますね」


 羅刹はお凛のその言葉に何とも呑気のんきなものだと思った。無間地獄の獄卒とは地獄の者であれば、誰もが羨む名誉職である。そこにいる獄卒は全て一級の膂力りょりょくと権力を有する鬼ばかりだ。亡者だけに留まらず他の階層の鬼どもからも畏怖される。しかし、この女はそんなことさえ知らないのだろう。実に間抜けなものだ。


「しかし、わたしも今では末端職だ」


 お凛は囲炉裏のそばに寄って火を見つめていた。


「確かに、地獄の一番端っこですね」


 お凛がポツリと呟いた。顔は青い痣ばかりで片目は腫れ上がっている。


 羅刹は思わず笑い声を上げる。ここは最も中有の入り口に近い審判の場である。物理的に地獄の端である。


「情けない」


 羅刹は思わず呟いた。本当に自身の軟弱な心には嫌気がさす。お凛の方が幾分豪胆な精神をしているのかもしれない。


 羅刹が俯いているとお凛が「あの」とか細い声を発する。

 

「燕鬼殿はどうなったのですか?」


 お凛は少し不安そうに見える。あの犬のように小さい鬼とは最初の同僚だったのだろう。


「閻魔王の御前に送り届けた。おそらくは等活地獄か黒縄地獄に回されるかもしれないが、あの身体では肩身は狭かろう」


 鬼の中でも小さき者は弱者とみなされる。鬼たちの中では力こそが優劣を分ける基準となる。故に弱き者にとっては末端こそが最も安息できる場所である。


「……確かに燕鬼殿は規律を乱しましたけれど、罰せられるほどのことだったのでしょうか。燕鬼殿は、わたしが至らないばかりに手助けをしてくださっただけで」


 お凛は狼狽して矢継ぎ早に話す。その声は震え、何故か怯えているように思えた。


「地獄において規律を乱す者は絶対的な悪である。極楽浄土のお気楽共は気まぐれであるが、地獄の官吏は違う。地獄には秩序が最も重んじられる。そうでなければ、ただの残虐性と快楽が支配する場所になってしまう」


「そ、そうかもしれません。しかし、燕鬼殿は職務上、仕方なく……」


 羅刹にはどうしてこの女があの鬼を庇おうとするのかわからなかった。


「あの者は禁を犯したであろう。亡者を食らおうとしたであろう? それがどう言うことかお前は知っているか?」


「どうと申しますと?」


「つまりだ。なぜ地獄で審判の前に鬼が亡者を食することを固く禁じているか。その理由についてである」


 お凛は首を横に振って「存じ上げません」と呟いた。


「審判を受けるまで亡者の魂は中有を彷徨う」


 羅刹は淡々と言い含めるように話し始める。


 しかし、お凛はその言葉を聞いても全く見当が付かないと言うふうに首を傾げるのであった。


 世話の焼ける赤子を見る時のように目をすがめて羅刹は言葉を噛み砕いた。


「いわば亡者は海に浮かぶかいのない舟のようなものだ。波に流されるだけで何処にでも行ってしまう。だから、それを何処かに繋ぎ止める必要がある。その繋ぎ止めることがここでは審判となる」


 羅刹の言葉にお凛はコクコク頷いた。


「つまり審判を行った亡者はどんなことをしても、そこに繋ぎ止めておけるのだ。地獄の刑罰ではもちろん鬼が亡者を喰らうこともあるがそれは審判を終えているからである」


「では、審判を終えていない亡者が喰われた場合はどうなるのでございますか?」

 羅刹は神妙な顔をしてお凛の

顔を覗き込んだ。


「繋ぎ止められない魂は鬼の中で行き場を失う。そして、亡者の魂は鬼の一部になるのだ。つまり、本当に食われて消滅してしまうと言うことになる」


 お凛の目が見開かれて、その黒い瞳が羅刹を捉えた。


「そ、そんなことに?」


 羅刹はその様子を見て子供のようだと思った。


 にわかに外で地盆虫が騒ぎ始めた。


「亡者! 亡者!」


 羅刹はすぐに立ち上がった。


「さあ、無駄話は終わりにして、仕事の時間だ」


 羅刹はすぐに引き戸を開いて葬頭河を眺めた。


「は、はい」


 と遅れてお凛もその後について行ったのであった。

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