ほとぼりの冷めた頃に

 葬頭河そうずかの流れは滔々とうとうと淀みない。その河岸かわぎしには緋色ひいろ曼珠沙華まんじゅしゃげ(彼岸花ともいう)が一面に咲き、風もないのにその花弁が振り子のようにゆっくりと揺れている。対照的に地の砂利や石は黒々として浅瀬でも河の底を判別するのが難しいほどだ。


 そして、その曼珠沙華を呆然と眺める一人の男の亡者を羅刹は認めた。


「亡者! 亡者!」


 小屋の上では地盆虫が叫び声を上げており、羅刹は「もうよい!」と言い放った。


 その声に肩を震わせて男が羅刹を見た。


 痩せこけた手足は木の根のように黒々として、顔は頬が削がれているようだ。眼鏡の奥の落ち窪んだ目は亡者特有のものである。


 羅刹は後ろに控えるお凛に向かって言った。


「お前の仕事だ。さっさと服を剥いでやれ」


 お凛はしきりに頷いて、小走りで亡者の方に向かった。


 羅刹はその背を眺めながら、どのように対処するか見届ける必要があると思った。


——大混雑の時にはあの女をよく見てやれなかった。


 故に羅刹はお凛の行動を検分し、良き官吏として育成せねばならないと考えた。


 お凛が亡者と相対している姿を羅刹は遠くから見ていた。お凛は必死に亡者に何かを伝えようとしているようだった。しかし、その後すぐに亡者は首を横に振り始め、あまつさえ葬頭河を引き返そうときびすを返すのだった。


 その男の袖を必死に摑むお凛であったが、すぐにその手は引き剥がされ、男はそのまま橋に踏み込んだ。


「何をやっている」


 羅刹は怒号を放ち、お凛は急いでその亡者を追った。

 しかし、羅刹は疾風のように駆け、お凛を追い抜かし、亡者の首根っこを摑んだ。


「お前、時鳥ほととぎすの知らせを聞かなかったのであるか? そのまま地獄の最奥に向かうことになるぞ」


 男は羅刹の顔を見つめていた。首を摑まれた苦しさで顔が歪む。しかし、男は言葉を発しなかった。ただその痛みを必死に耐えるように奥歯を噛み締めているのだった。


 羅刹はゆっくりと男を地に下ろした。


「羅刹様、お待ちください」


 お凛が叫ぶ。


「何を待てと?」


「私にお任せいただけませんか?」


 息を切らしてきたお凛は射抜くような瞳で羅刹を見ていた。


 今までと違う顔をする、そう思った。だから、羅刹も黙ってその場を退くことにした。数歩後ろに下がった羅刹は橋の上に立つ二人を眺めた。


 はじめに声を発したのはお凛であった。


「あの、私の話を聞いてはもらえませんか?」


 亡者に尋ねるなど無意味など愚かなことだと思う。亡者は従わせるものだ。獄卒は毅然として亡者を律する必要があると言うのに。


 男の表情は相変わらずに歪んでいる。何かを我慢するようにずっと口を引き結んでいる。地獄の官吏を相手にこんな表情をする奴は初めてだと羅刹は思った。同時にお凛が官吏らしからぬことも原因であるかと考える。


「ここで罪の重さを計らねばなりません。ですから、その着物をお脱ぎください」


 無意味な言葉だと羅刹は思う。無理矢理にでも剥ぎ取ってしまえばよいものを。


「それは、できません」


 低く、しかし、軽い、蟋蟀こおろぎのような声であった。


「愚かな! あなたは死んだのでございますよ!」


 お凛にとっては精一杯の怒声だったのかもしれない。羅刹には怒声にすら聞こえなかった。


 すると男は眼鏡を外し、目を抑えてその場にくずおれた。そして、スンスンとすすり泣き始めたのだった。


——何とも間抜けな光景だ。


 あまりのことに羅刹は呆れ返った。


 お凛は泣く男の前で右往左往し、その頭上でカンカン地盆虫が喚き始めた。


 羅刹は空を仰いだ。静かに流れる葬頭河の辺りはにわかに騒然となるが、この緊迫感のない状況に羅刹はため息を一つ吐いた。


 空の色は鉛のように重々しく、黒点のような黒い穴がいくつも開いている。地獄特有の漆色の雲が馬のように流れていくのだった。


 これからのことを憂いた羅刹は一言、


「なき喚くのはお前だけで十分だ」


 地盆虫の飛ぶ空に向かって呟くのだった。

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羅刹の憂鬱 大狼 芥磨 @keima_ogami

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