奪衣の女
亡者は死後、中有の初めに暗闇の中で
葬頭河には三つの渡り方が存在し、最も罪の少ないものは橋を渡ることができる。この橋は葬頭河の中程にある。
次に
最後に罪の重い者が渡る
そして、葬頭河を渡り終えると
その様に幾つかに亡者を分散させることによって事実上の混雑を避けることに成功していたのであるが、今回の騒動、奪衣役の不手際によって、今葬頭河の岸は大混乱となっているのであった。
「ですから、お渡し頂かなければ困ります」
毘藍樹の真下で奪衣役の女が
「できません、できません。あんたの様な見窄らしいものにはわからんでしょうが、これは上等な絹の装束です。無銭で譲れるものじゃありゃあせん」
そんな騒動の中、毘藍樹の側の最前列で佇む男の亡者が
「そ、そんなことを言っても仕方ございません。ここより先は地獄の入り口にございます。そんな着物簡単に燃え消えてしまいます。ですから、ここに置いて行きなさい」
亡者はそれでも「できませ
ん」と頑として動こうとしない。
それを見かねて毘藍樹の枝の上にいた小さな鬼がバンッと地面に降り立った。
「
その鬼の肌は灰色で米粒ほどの
鬼の言葉を聞いてもその不遜な男は腕を組み「できません」と言い張る。その鬼の小ささに恐れるどころかかえって勢いづいてしまったらしくケラケラと笑い始めた。
「地獄がどんなに恐ろしい所かと思ってましたがね。こんな犬の様に小さな鬼と見窄らしい女がいるだけだあ! こりゃ笑える」
そこらにいる亡者に向かって、その官吏二人を
その三尺の鬼は
「食ろうてやる!」
鬼は叫ぶとその男の首元を摑んで地面に倒すと腹の辺りに齧り付いた。
いくら小さき鬼といえども紛うことなく鬼であった。握力は万力の如く、人間の首など簡単に折れてしまうのである。男の亡者はすぐに首の骨を折られて、呻き声を上げることとしかできなくなった。
「あ、やべ、て、ああ」
痰の混じった様な声で亡者は呻いたが誰も助ける者などいなかった。
鬼は腹の肉を引き裂いて、肉を食おうと一生懸命である。
「
その光景を見た奪衣役の女はすぐさま止めようと声を上げた。
「喧しい! 貴様が無能なのが悪かろう! 我のやることに口を出すな!」
燕鬼というその鬼は制止な声を全く聞かず、亡者の
亡者の群衆からいくつもの悲鳴が上がった。
亡者は皆が恐慌状態となり元来た道を戻り始める者まで出る始末である。
「な、なりません! 戻ってはなりません!」
必死に叫ぶ奪衣役の女であったが、その声は喧騒に掻き消され、聞くものは誰もいなかった。
「どうして……」
女は黒い地面を見つめた。自身の
燕鬼はなおも亡者に夢中、亡者は恐慌状態、これ以上はないというほどの危機的状況であった。
そんな折に激しい怒号が葬頭河の辺り一帯に響いた。
「静まれ‼︎ 中有を戻る者はみな、
雷の様な怒号が駆け抜けるのであった。無間地獄、それは最も罪の重い亡者の行き着く地獄の
瞬間に全ての亡者が動きを止めた。
怒号の主は羅刹であった。そして、その後ろからは牛の頭を持つ巨大な鬼、牛頭と馬の頭を持つ巨大な鬼、馬頭が迫っている。それらを先導するのはあの地盆虫である。
「ら、羅刹様」
燕鬼が呟いた。
羅刹は亡者の腑を引き摺り出している燕鬼を見て、無言のままにその胴を蹴り飛ばした。
うぐっと呻いて燕鬼は八尺ほど吹き飛んだのである。
「
燕鬼は地面に
「それは承知しております。しかし、あの者が我々に無礼を働き、職務を遅滞させたのであるからして」
燕鬼は爛々と目を光らせていた。自身の正当性をまるで疑わぬ者の態度であった。
羅刹は後方の牛頭と馬頭に亡者の動きを取りまとめる様に指示を出した。牛頭と馬頭が前進するたびに亡者のどよめきが聞こえる。
牛頭と馬頭が亡者を取りまとめている姿を確認して羅刹は再び燕鬼に向き直った。
「お前の職務は何であるか?」
「亡者の罪を測るため、被服を毘藍樹に
燕鬼は迷わずに言い切った。さも職務に準じた結果であり、自身の正当であるという自信に満ち満ちしている。燕鬼は平伏したが、その口元が引き上がるのを羅刹は見逃さなかった。
「それだけか?」
羅刹は呆れ返ったのだった。
こんな者と新米ではこの様な惨状になるのは
「奪衣役、懸衣役とはこれ地獄の入り口の門番と同義である。奪衣役の至らぬ点は懸衣役が補佐をするのが当然の責務。だのにお前は傍観し、
燕鬼はみるみる顔色を変えていった。自らの行いの愚劣さを
羅刹は顎で地盆虫に指示を出す。
地盆虫は大きな羽音をたてて、燕鬼の首根っこをクチバシで挟み込んだ。すると軽々と燕鬼程度の重さは持ち上げられるらしく、そのまま空中に飛び上がった。
「閻魔王に審判を下していただく必要がある。そのまま宮殿まで連れていけ」
羅刹の
「あ、だすげ、で」
腑が露わになっている亡者が呻いているのを羅刹は見下ろした。
「実に哀れだな」
羅刹は左手に持った銅鞭を亡者の腹に突き立て、肋骨に引っ掛け亡者の身体を持ち上げた。
亡者の悲痛な呻き声が響く。
「大丈夫だ。死にはせん。死ぬ苦しみを味わいながらも死ねぬのが地獄だ」
羅刹は男の上質な絹の着物を剥いでそのまま毘藍樹に投げ掛けた。すると、毘藍樹の枝が大きくしなり始める。
「お前、随分と悪行をなしてきたようだ。さぞ良い審判が下ることだろう」
毘藍樹に掛けられた亡者の着物は次の瞬間、青色の炎を発し燃え消えてしまう。だのに毘藍樹の枝は全く焦げたところもなく綺麗なものだった。
羅刹は振り払うように男を地面に投げ飛ばした。裸になった男は腑を引き摺りながら、地面を這った。羅刹はさっさと行けと男の尻を蹴る。
哀れにも男は叫びながら宮殿への道を這いずっていくのだった。
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