羅刹

 地盆虫を傍に連れ立って鬼は宮中に入った。宮中の壁は燃えるような朱色に染め上げられ、豪奢な装飾の施された吊り灯籠とうろうがいくつもある。


 しかし、鬼はそんなものには目もくれずにずんずんと歩んでいく。


 大広間に出ると巨大な朱塗りの丸い柱が屹立きつりつし、一番奥にはだんが設けられている。その上には金で装飾された絢爛たる方椅ほういがすえられていた。しかし、そこに座る者はおらず大広間は静かだった。


 鬼は広間の中心まで来るとその場にひざまずきその方椅を見つめた。虫は羽音を立てながら宙に静止しかんかんと間抜けな鳴き声を上げる。


 すると方椅の周りが炎に包まれる。火焔の中にうっすらと二つの陰が見え、そして、数瞬の内に炎は消える。すると眼前には方椅に座る者とその傍らに佇む者があった。


 鉛白色えんぱくしょく道服どうふくに赤ら顔の男が気怠げに座っている。目は小さく口髭が妙に愛らしい、薄い唇をひき結んでいる様子を見ると吝嗇けちな印象を受ける。


 その男がかの有名な閻魔王であると誰が想像できようか。八尺ほどもある体躯たいくに片手には陶器の酒瓶が握られているのを見るとただの酔どれである。


 そして、その側には鎧を纏った七つか八つほどのわらべが微動だにせず、鬼のほうを見つめている。


「おう、ひっ、ようきた。羅刹」


 吃逆しゃっくりを一つして閻魔は微睡むように薄く開いた目をその鬼に向けた。


 羅刹と呼ばれた鬼は慇懃無礼いんぎんぶれいに頭を下げて答える。


「急な呼び出しでしたので、取るものも取り敢えず駆け付けた次第でございます。ですのでご用件を早急に伺いたく」


 閻魔はそれを聞いてカッカッと大笑いした。


「それは悪かったなあ。羅刹よ。しかし、身支度は万全のように見えるが」


 閻魔は羅刹の腰に帯びる銅鞭を指して言う。


 羅刹は黙したまま、閻魔を見つめた。


 閻魔は再びカッカッと笑った。


「まあ良い。其方そなたも忙しいことは理解しておる。しかしながら、今回は急を要するのでな」


 閻魔が言うと側の童が前に出る。手には巨大な鏡を持ちそれを羅刹のほうに突き出した。これは閻魔の浄玻璃鏡じょうはりきょうに相違ない。浄玻璃鏡は亡者の罪を明らかにするため現世から来世、はたまた過去から未来まで森羅万象を映し出すことのできる鏡であった。


 そして童の手の中にある鏡に何かが映り始める。


「こちらは葬頭河の様子にございます」


 童は凜然と声を発した。鏡には葬頭河の橋の所に亡者が幾人も詰め掛け、橋からこぼれ落ちんばかりにひしめき合っている様子が映し出されている。別の岸からも亡者がそちらに向かって歩みを進めていた。浄玻璃鏡から覗くそこは死装束の亡者で溢れ、一帯を白いインキを溢したように埋め尽くされている。


 羅刹はその鏡を自身に引き寄せた。


「これは一体どういうことでしょうか?」


 これほどまでに大量の亡者が押し寄せている光景はかつて見たことがなかった。


「現世では戦争でも行っているのですか? それとも未曾有の大災害が?」


 羅刹はその光景を見ながら言うが、閻魔は「否」と首を振った。


「よぉく見るのだ」


 鏡の光景が徐々に拡大されていくと巨大な木とその横の小屋が見えてくる。そして、その小屋の近くで慌ただしくそこらを行ったり来たりする女の姿が映し出されているのである。


「何者ですか、この者は?」


 羅刹はその女をじっと見つめていた。ここにいるはずである官吏はこんな容貌をしていなかったように記憶している。


「先日のことだ。奪衣役だつえやくのお菊が退任を申し出おったのだ。故に別の者をあてがう必要があった」


「つまり、奪衣役にこの見窄らしい女が就任したと言うことでございますか? そして、その女が原因でこのような事態に陥っていると」


 閻魔は首肯した。


 鏡の向こうで慌ただしく動く女は何もできずにただ辺りを彷徨っているだけであった。常ならば、奪衣役として亡者の被服を剥ぎ取らねばならぬはずなのだが、その手は宙をかくばかりである。


 前任のお菊は数百年と葬頭河の畔で亡者の被服を剥ぎ、服を差し出さぬ者があればその亡者の皮まで剥いでしまうほどだった。お菊は地獄の官吏として申し分ない胆力たんりょく膂力りょりょくを備えていたのだがこの女にはそんなもの毛ほども感じられない。


「亡者にまるで怯えているようではありませんか。すぐにでも交代させるべきでしょう」


 羅刹は閻魔に進言した。


 閻魔は顎髭あごひげもてあそびながら、唸った。


「それが叶うのであればそうしよう。しかし、その者を退任させることはできんのだ」


 閻魔は困り顔で羅刹の前に佇む童に説明を促した。


 童はそれに答える。


「奪衣役に関しては上からの申し出がございましたので交代は絶対に認めないということでございます。故に今回は早急に対処すべきと判断いたしましたので、獄卒を一名召集いたしました」


 淡々と童は言い募り、羅刹は嫌な予感を抱いた。


「要するにだ。今回は奪衣役の交代は叶わない。故にもう一つの役職を交代させることとなった。奪衣役の補佐役、懸衣役けんえやくをな」


 羅刹は顔を上げて閻魔を見つめた。


「羅刹よ。其方は本日付で異動だ。今日から其方を懸衣役に任命す」


「わ、わたしが懸衣役でございますか?」


 閻魔は首肯した。


「何? 不服か?」


「いえ、謹んでお引き受けいたします」


 と言った羅刹であったが、内心は悲憤慷慨ひふんこうがいしていたのである。どうして私なのだと心中で叫び声を上げる。


 惨憺さんたんたる現状の葬頭河に足を踏み入れることとなった羅刹は愕然と肩を落とした。


 その様子を隣で見ていた地盆虫がキキキキッと甲高い笑い声を上げたのを羅刹は聞き逃さなかった。


 羅刹はこの虫をくびり殺そうと胸の内で硬く誓ったのであった。


 宮殿を出てすぐさま羅刹は葬頭河の巨大な毘藍樹びらんじゅ(現世では衣領樹えりょうじゅと呼ばれる巨木)に向かったのであった。


 側には地盆虫を伴っている。大広間から出る際に閻魔から伝令役としてこの地盆虫をつけると言いつかったのだが、羅刹にしてみれば甚だ不服であった。


 そして、門を潜り、宮殿の敷地から外に出た瞬間、羅刹は腰に帯びた銅鞭を抜き放ち地盆虫の首の根元に振り下ろした。


 地盆虫はキェッと妙な鳴き声を上げて、地面に叩き落とされる。


「わたしに付き従うのであれば、礼節を重んじろ。でなければ、次はお前の胴と頭を分けて剥製にして毘藍樹に括り付けてやろう」


 銅鞭を首に押し当てながら羅刹は言った。


 すると地盆虫は嘴をカクカク揺らしながら頷くのであった。


 それからは薄暗い黒土の道を二つは黙って歩くのであった。その道には何もなく、ただ暗い。遠くから炎のパチパチと燃える音と何者かの悲鳴のような風の音だけが微かに聞こえるのである。


 羅刹は無言のまま胸中で今後のことを考えていた。


 どうしてこのような些末な役を仰せつかることとなったのか。自身に何か至らぬ点があったのだろうかと思い悩んでいたのだ。


 というのも奪衣役と懸衣役が地獄では極めて軽んじられている職務の一つであったからだ。


 奪衣役は亡者の被服を剥ぎ、そして、懸衣役がその剥ぎ取った服を毘藍樹の枝に引っ掛ける。そうすると毘藍樹の枝がしなることで亡者の罪の重さを測ることができるのである。しかし、この役は地獄の獄卒らからすれば、極めて生温い仕事のように写ったのである。亡者の肉を焼くことも甚振る《いたぶ》こともできない。それは地獄の鬼どもにとっては何よりもつまらないことであった。故にこれらの職務はつまらない職務、この役につくものは落ちぶれて無能な者という烙印を押されるのである。


 羅刹自身は奪衣役と懸衣役をそう軽い仕事とは思っていなかった。罪を犯した者の最初の審判の場としてこの職務が重要というのも重々承知している。しかし、羅刹は地獄の高官として広く知れ渡っており、高官が末端職に着くことは極めて異例である。


 そのことが羅刹の自尊心を酷く傷付けたのであった。


何故なにゆえわたしなのだろうか……」


 肩を落として、足元ばかりを見つめる羅刹の傍らで地盆虫は口をガッと開いて、目玉をギョロギョロと動かしていた。


「羅刹殿も、落ちぶれ、落ちぶれ」


 激しい怒りが羅刹の内から湧き上がった。


 すぐさま羅刹は地盆虫の首を引っ摑み眼前で地盆虫を凝視した。


「何故にこれほどまで侮辱するか問おう。先ほどの無礼も記憶に新しいのは言うまでもないが、わたしの警告を忘れたわけではあるまいに」


 キェキェと喉を鳴らしながら地盆虫は喘息持ちのように声を発する。


「落ちぶれ、落ちぶれてない! 閻魔王の意図!」


「閻魔王の意図とは如何いかに?」


 地盆虫は呻き声を上げながら身体をよじる。


「信頼にあたう官吏、すなわち羅刹殿!」


 地盆虫の甲高い声が何もないがらんとした道の隅々に広がった。


 羅刹はつまらない世辞だと羅刹は思った。そして、地面に叩きつけるように地盆虫を手から放った。


 虫の言葉なぞ聞く価値もないと思いながら、羅刹は内心自らの考えの甘さを反省するのであった。


 どのような役職であろうと全うするのが地獄の官吏であることを心に打ち付けた。地獄に最も求められるものは秩序である。羅刹自身がこのように浮き足立っていては示しがつかないと自身を戒める。


 そして、万全を期するために虫に向かって言い放った。


「一つ伝令をするのだ」


 地盆虫にあることを伝える。するとコクコク頷いた虫はそのまま元来た道の方へと飛び立ったのだった。


 ここまですれば何ら問題はなかろうと羅刹は思った。


 そして、羅刹は葬頭河への道を急いだ。

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