3

 亜矢子を例の屋敷の前で降ろすと、迎えは夜十時だと告げられた。おれは「はい」と返事をして、彼女が建物に入るのを見送った。近頃ここには、亜矢子以外にも多くの人間が訪れているようだった。いまもぱらぱらと何人かがやって来ているのが見える。観察してみるに、来訪者たちにこれといって共通点はなさそうだった。男も女も、若者も年寄りもいる。

 おれは車を発進させた。少しだけ走り、あらかじめ決めておいた、奥まって目立たぬ空き地に車を停める。制服代わりにしていたスーツを脱ぎ、用意してあったパーカーとジーンズに着替えた。これといって特徴のない目鼻立ちのおれだから、亜矢子のほうも「スーツの男」としか認識していないであろうと踏んでいた。

 歩いて屋敷まで戻り、何食わぬ顔で適当なグループに紛れ、なかに入った。上手くいった。

 人の流れに乗っていると、やたら広い座敷に出た。けっこうな人である。全員が座布団にかけ、前方に注目しているようだった。おれもそれに従った。

 座ったまま亜矢子の姿を捜す。最前列にいた。後ろからちょうど観察できる位置である。たいへん都合がよい。

 これからなにが始まるのか。まさか漫才というのではあるまい。亜矢子をおかしくしてしまった原因、少なくともその手掛かりが、おそらくここにあるはずなのだ。おれは息を詰め、じっと亜矢子の後ろ頭を見据えた。

 数分後、作務衣姿の男がひとり出てきて、おれたちの前に立った。場がざわめいた。なにやら大層な人間と認識されているらしいと判断できた。おれも周囲に倣って、ありがたいものを拝むような厳粛な表情を作った。男はわざとらしく咳払いをし、

「みなさま。時導師の永庭です。本日はようこそ、聖流復古の会へ」

 こんなことであろうと思った。予想通りすぎて落胆したほどである。ちなみに聖流という字はおれが頭のなかで勝手に当てたものにすぎない。本当のところは清流復古でクリアウォーター・リバイバルかもしれないがどうだっていい。ついでに言うと時導師というのは法要の一部分だけを担当する導師のことだ。

 判り切ったことだからさっさと語ってしまうが、このあと主導師を自称するまことに胡散臭い男が現れて、おれたちの前で「奇蹟の技」を披露してくれたのである。あえて弁護しておくなら、ショウとして観賞するぶんにはなかなか手が込んでいて、そう印象は悪くなかった。セットを用意するにもそれなりに苦心したのだろうし、展開も巧みで飽きさせなかった。

 しかしながら、そういう罰当たりな楽しみ方をしていたのはおれ一人であり、他の全員はこの聖流復古の会の連中に心酔していたのだ。むろん、亜矢子も。


 *


 おれは史織と頻繁に言葉を交わすようになっていた。送り迎えはものの十分二十分で済んでしまうから、仕事の大半は待機なのだ。空き時間を、おれはなるたけ史織と過ごすことに充てた。彼女もまたおれに親しみを感じてくれているらしく、ときおり明るい笑い顔も見せるようになった。家族の話題はやはり避けたいらしい、と感じていたおれは、彼女と話すときあえてそこに触れないことにしていた。彼女のほうから語ってくれたことといえば、亜矢子が父親の再婚相手であること、現在は父親がいないこと、そのくらいである。何日かに一回は家に上げてもらって茶飲み話をしたり、勉強を教えたりした。いちおう大学を出ているので、中学レベルくらいの問題なら対応できるのである。

 そのうち自分の知ったことを史織に伝えようと思っていた。おれだけの秘め事にしていても仕方がないのだ。しかしどうにもうまく切り出せず、なにも言えぬまま帰ることをおれは繰り返していた。自分でも情けないと判ってはいたのだが。

 ところがある日の夕方、「もしお話があるなら、どこか聞かれないところで」と史織のほうから言ってきた。いつ話し出したものかとまごまごしているおれの態度からなにか察したらしい。鋭いものだと驚いた。どうせ周りは田んぼや畑ばかりで、誰に盗み聞きされる心配もなかろうと思ったが、そのあたりは彼女の感覚と異なっているのかもしれない。時間はあった。少し迷って、「じゃあ、ちょっとドライブするか」と持ちかけた。彼女は頷いた。

 史織は助手席に乗り込んだ。なんとなくいつもと違うなと思ったら、亜矢子が常に後部座席に座っていたせいだと気づいた。そんなにおれの隣が厭だったのか。まあべつに構わないが。

 車を走らせながら、しばらく適当に雑談した。タイミングが掴めなかったせいだが、史織は明らかに焦れていた。覚悟を決めているらしい彼女がちらちらとこちらを窺ってくるのに根を上げ、おれは話しはじめた。慎重に言葉を選ぼうとしたのだが、史織は珍しく強い口調で、

「はっきり言ってくださっていいんです」

「……判った。亜矢子さんは、たぶん変な新興宗教にはまってる」

 多少なりショックを受けるのではないかと身構えていたのだが、彼女は「そうですか」と悲しげに俯いただけだった。なにを言えばいいのか判らなかった。体感的にはとてつもなく長かった沈黙のあと、

「もし、誰かが悪い目にあっているとして、どうにかしてあげるためには自分も悪いことをしなくてはいけないとしたら、どうしますか」

「誰か助けてくれって言う。自分たちを救い出してくれと」

「答えになっていません」

「なってる。言えない理由がどこにある?」

「わたしはやるかやらないかと訊いたんです」

「そんな理不尽な選択を強いてくる奴が悪いんだ。おれなら叫ぶ、冗談じゃないって」

 史織はまた黙った。おれは車を停め、ポケットから筆記用具を取り出して殴り書きすると、紙を破って彼女に渡した。二列に並べた数字を順に指さしながら、

「電話番号。おれは頼りにならないと思うけど、こっちの事務所のほうに架ければ、榊が――前に話したよろず屋が、きっとどうにかしてくれる。あいつの場合、趣味みたいなもんだから気兼ねしないでいい」

「――ありがとうございます」

 小さな声で言って、史織はメモを折りたたんだ。


 *


 おれは榊の事務所に入り浸るようになった。史織から電話があるとすればこちらだろうと確信していたからである。亜矢子の運転手を務めたあと、車を事務所に置きに行き、そのまま帰らない。長椅子は二つあったので、片方がおれの陣地と決まった。榊は相変わらず、仕事をしているんだかしていないんだか、分厚い本の頁を繰ったり、こちゃこちゃと文章を書いたり消したり、数時間単位の瞑想に耽ったり、わけの判らぬ行動を繰り返しているばかりである。

 たまに電話が鳴ると、おれは率先して取った。大概がセールスや間違い電話の類で、そのたびに怒鳴りつけてやりたくなる衝動に駆られた。

 おれは榊に、飯綱家のことをみな話してあった。ぼろアパートの事件のときのように、彼がなんらかの解決を提示してくれるのではと期待していた。「聖流復古の会」なるいかさま団体の「奇蹟の技」の種を明かしてやればいいだけではないのか。そのくらい、榊ならば簡単にできるだろうとおれは思っていた。ところが彼はかぶりを振って、

「種をばらすことは俺にでもできる。しかし、それだけでは駄目だ」

「なにが駄目なんだ。いんちきだって判らせれば目も覚めるだろう」

「いや、問題は心のほうなんだ。信じたいという気持ち、というか、いんちきを信じることによって得られる便益がある、と当人が感じている限り、外野がなにを言っても無意味だ。人は信じたいものを信じる――信じていることにしてしまう」

「信じていることにしてしまう……同じじゃないか?」

「違う。信じたいものを信じる、つまり多少は疑いながらもやはり信心を捨て去れない、という心理は、愚かだが純粋だ。しかし、信じていることにしてしまう――つまり、本心ではまったく信じていないものを、自分は信じているのだと周囲にアピールすることでなんらかのメリットを得られる場合、それを理解したうえで利用している場合、こっちはずいぶんと悪質なんだ」

 半分判ったような気になって、おれは唸った。榊は掌を組み合わせながら、

「まあ、別のところから取り掛かってみよう。ほかに気づいたことはなかったか。些細なことでもいい。飯綱母子のことでなくとも、おまえの体験でも構わない」

 おれの体験。言われて記憶を手繰ると、ふっと浮かび上がってきたものがあった。

「……顔だ。白い顔」

「なんだそれは。詳しく聞かせろ」

 おれは例の、史織と接触事故を起こしかけた話をした。道の真ん中を走っていて、とつぜん暗闇に白い顔が現れたものだから、慌ててブレーキを踏んだ。衝撃は皆無だった。車を飛び下りると史織がいて、彼女はずっと道の端を歩いていたのだと語った。すなわちあの首はおれの見間違いであったと思った――。

「そういうことは早く言え。どんな顔だった? 大きさ、見えた距離と高さを覚えているか?」

 一瞬しか見えなかったものだから、厳密な記憶などむろんない。ただ漠然と、白い顔だったな、と思うだけである。

 ぼんやりした返答で落胆させてしまったかと思いきや、榊はそうした様子はまるで見せず、続きを、と促してきた。おれはそれから順を追って、史織と交わした言葉や、彼女を家まで送っていったことなどを話した。狐について問われたあたりに差し掛かると、榊はおれの語りを遮り、

「たしかに狐と言ったんだな」

 頷いた。榊は長椅子に座りこんだまま眼を閉じ、長らく考え込んでいたかと思えば、急に立ち上がって、

「ちょっと待っていてくれ」言い置いて、どこかへ出掛けてしまった。

 ぽかんとしたまま座っていた。二時間ほどして榊は戻ってきた。紺色の袋を下げている。彼は再びおれと向かい合うように腰を下ろして、持ってきた袋に手を突っ込んだ。

「あくまで推測だが、おまえの見た顔の正体はこれだと思う」

 出てきたのは真っ白な狐の面だった。どこかで買ってきたものらしい。しばらくそいつとにらめっこをした挙句、おれは首を捻り、

「あのとき、これがどこにあったというんだ」

「飯綱史織さんの頭に決まってるだろう」

「ありえない。史織はそんなもの被ってなかった」

 史織が犯人などと言われてもむろん、納得はできない。しかし例によって榊は表情を変えることなく、掌で狐の顔をぴたぴたと叩いた。それから面をすっとこちらへ差し出して、ちょっと被ってみろと言い出した。おれはその通りにし、眼のところに開いた穴から相手の顔を見返した。

「ふつうはそうするだろうな。だが今回は違う」

 榊の手が伸びてきて面を掴み、ぐるりと半回転させた。狐の顔が後頭部に移動し、その鼻先がおれの顔とは正反対を向く格好になった。

「狐の面は、ちょうどそんな具合で、彼女の後頭部にあった。だから正面からは見えなかったんだ。陽が落ちて暗い時間帯だったから、おまえはそれに気がつかなかった」

 面を外された。榊はその顔を指先で擦りながら、

「これは光を反射しやすい素材でできている。つまり暗い夜道でも、遠くから目立つ。いくら色白といっても、人間の顔では闇にくっきり浮かび上がったりはしない」

 どこからか懐中電灯を取り出して、榊は狐の白い顔を照らした。彼の言葉通り、面はぴかぴか光っているように見えた。

「つまりこういうことだ。おまえは道を車で走っていた。彼女は後頭部に面をつけたまま、同じ道を歩いて近づいてきていた。暗くなっていたうえ、彼女が真っ黒の制服を着ていたから、おまえにはその姿が見えなかった。そしてある距離まで来たとき、彼女は急に後ろを向いた――ライトが眩しかったかなにかだろうな――すると狐の面が、光に照らし出される。おまえの眼には、白い顔だけがいきなり現れたように映る」

「……なるほど」合理的である気がした。真っ黒な制服と、光を跳ね返しやすい材質の真っ白な面。思考を整理しながら狐面を弄んでいると、とつぜん榊は諭すように、

「おまえもたまには帰って寝たほうがいい」

 彼の表情を窺うと、疲れがたまっているのかもうひとつ浮かない顔をしていることに気づいた。考えてみればおれは、仕事仲間で友人とはいえ、いきなり彼の生活領域に踏み込んだ部外者である。この事務所は彼の居住空間なのだ。安寧を妨げてしまっていたのかもしれない。辞去することにし、去り際、榊にその旨を詫びると、

「そういうことじゃない。俺はいつどこでも安らかに眠れる質だから。俺のことではなくて……」

「なんだよ」

「いや、いい。それじゃあな」

 この曖昧な態度が気にかかり、部屋に帰っても神経が休まらなかった。翌日も仕事が入っているのだからさっさと眠るべきなのだが、いつまでたっても睡魔が訪れてくれず、おれはただベッドのうえで寝返りを繰り返していた。以前に事務所から借りてあった推理小説をめくってみたり、小音量で音楽をかけてみたりしたが、まるで無駄だった。

 ごく当たり前のように史織のことを考えた。亜矢子がどうこうよりも、おれは史織のことが気にかかってならなかった。彼女があの顔の正体――信じたくはなかった。榊の手によって、確かにおれの見た幻のからくりは暴かれたわけだが、しかしあれはあくまで物理的な可能性の提示にとどまったではないか。仮に史織が犯人だったとして、その意図はどこにあったのか、おれが知りたいのはそこなのだ。

 あのとき史織がこちらに向かって歩いてきていたとすれば、彼女はどこに行こうとしていたのか。おれは史織を乗せて飯綱家まで走った。すなわち彼女からすれば、来た道をただ逆戻りしたにすぎないのだ。単なる散歩だった? そんな莫迦なことがあるわけはない。

 そもそも彼女は、なんのために狐の面などつけていたのだろう。なぜそのことを、おれに黙っていたのだろう。白い顔を見た――そう言われて、自分の後ろ頭にくっつけている仮面に意識が向かないものだろうか。

 思い出した。おれをじっと見据えていた、史織のふたつの眼。相手の真正面に立ちその眼を見つめて話す癖の持ち主なのだと、おれは思っていた。丁寧で落ち着いた言葉づかいと相まって、これは礼儀正しい娘であるなとあのときのおれは感じたのだ。

しかし榊の言った通りなら……史織は狐面をおれの眼から隠そうとしていたのではないか。

 動機が判らない。まさか榊が語り落としたとは思わなかった。きっと彼にもまだ解けていないのだ。冷却期間と追加情報の両者を、榊は求めているに違いなかった。

 そんなことを頭のなかで捻り回しているうちに、いつの間にかおれは眠ったようである。そうして狐の夢を見た。真っ白な狐が悪戯気に尻尾を振っている。駆け寄ろうとすると狐はくるりと身をひるがえし、次の瞬間には煙のように消えてしまうのだった。

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