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「このあいだ、部屋を探しに行ったんだ」と榊は言い、おれのコップにビールを注いでくれた。「引っ越すのか」おれが訊くと、もともと自分の部屋というものがないのだと答える。電話したり仕事で顔を合わせたりはしていたものの、そういえば彼の住居を訪問した覚えというのはまるでなかった。まさか部屋自体がなかったとは。聞けば榊は、よろず屋事務所の長椅子で寝起きしていたのだという。そういうことがあまり気にならない質らしい。おれは驚き半分納得半分で小さく頷き、ビールに口をつけた。彼のほうではときおりおれの部屋にやってきて、二人して飲んだりすることがある。この夜もそうだった。
「格安のおんぼろアパートだったんだが、少し気になることがあってな」
「どんな」住居に雨風を凌ぐ以上は求めないであろう男が。立っていられないほど斜めになってでもいたか。
「西側の壁だけ真新しかった。だから借りるのをやめた」
「どこがだから、だ」斜めなのは思考回路のほうであった。おれは顔をしかめたが、榊は意に介した様子もない。こういう様を見るにつけ、おれは榊という人間が判らなくなる。説明を求めると、彼は特有の落ち着き払った笑みを浮かべながら語りはじめた。
くだんの部屋には以前、三十代かそこらの男女が住んでいた。出入りの時間帯が不規則であることを除けばべつだん変わったところはなく、二人して静かに暮らしていたという。ところがあるときから、女は不審電話に悩まされるようになった。「いつも見ているぞ」といった内容で、しかも狙い澄ましたかのように、男がいないときに架かってくるのである。女はこれにすっかり怯えてしまった。
ある日女は、自室の壁に小さな穴が開いているのを見つける。まさかここから覗かれているのでは――そんな強迫観念に女は囚われた。すぐさま板を打ち付けて穴を塞いだが、恐怖は去らない。電話は相変わらず架かってくる。やがて神経をすり減らした女は、いささか突飛な行動に出た。隣の部屋に怒鳴り込んだのである。
隣室に住んでいたのは、近くの大学に通う貧乏学生だった。いきなり不審者呼ばわりされた学生は面食らい、自分はなにも知らないと答えた。ぼくはなにもしていない、そもそも話をしたことすらなかったではないか、と彼は抗弁する。なるほどもっともな主張だが、女は疑うのをやめない。
すると奇妙なことに、不審電話がそれきりぴたりと止んだのである。やはり隣の学生が犯人であったのだと女は決めつけ、ことあるごとに相手を罵った。これには学生のほうも納得いかない。自分のいっさい関与していない問題について、なぜこうも責められねばならないのか。そういうわけで、両者が顔を合わせれば大喧嘩という最悪の事態ができあがってしまった。
けっきょく両方とも出ていくという話になったのだが、問題の壁を放置したままでは収まりが悪い。取り壊しが決まり、壁は新しいものと入れ替えられたという次第であった。
以上を大家の婆さんから聞き出した榊は、その部屋を借りるのを断念したというのであるが――。
「で、そういうトラブルがあった部屋は厭だと?」
「いや。隣人どうしの喧嘩、不審電話騒ぎくらいならなんでもない。他になにか、まったく別の事情があったんではないかと、俺はそう疑っているんだ」
「まったく別の事情?」、
「そう。これから話すのはすべて推測――というより俺の妄想だが、ともかくそういう考えに至ってしまった以上、その部屋に住むのは無理だと結論した」
「よほどろくでもない妄想らしいな」
そうだな、と榊は頷いた。「妄想であってくれればいいんだが。まず、大家の婆さんの話を聞いて、おかしいと思った点がいくつかあった」
そこで言葉を切ったのには、おまえはどうだった、と問いかける意図があったのだろう。即座になにも浮かばず黙していると、榊は「一点目」と人差し指を立て、
「いちばん奇妙なのは女の行動だ。壁に穴が開いていた、それだけの理由で隣人を犯人と決め付けた。いまどき壁に穴開けて覗き見する変質者なんて、まずいない。ふつうに考えればそうだろう。しかも、なんの証拠もないのにいきなり怒鳴り込んだ」
「……不審電話に神経をやられて、まともに考えられなくなってたんじゃないか?」
「そうかもしれない。だとしても、不審電話の犯人と思っている奴のところに殴り込んだりするものかな。大家の婆さんは、女はそうとう怯えていたと言っていた。そういう人間の行動としては不自然だろう」
「ひとりじゃなくて、男が一緒だったんじゃないか? いたよな、同棲してる男。はじめの部分にしか出てこなかったけど」
「それが二点目だ」榊は続いて中指を立てた。「詳しく聞いてみたら、どうやら女一人でやったことらしい。変だろう」
確かにそうだ。男の存在感のなさが、おれも気にかかっていたのだ。カップルの話と思いきや、具体的な動きを見せているのは女だけなのである。
「そこでもう少し突っ込んで考えることにした。すると、はじまりの不審電話の時点から変だったような気がしてきた。男と女はともに、出入りの時間が不規則だった。それなのに決まって、不審電話を受けるのが女という点が」
「それは、不審者が見張っていたからだろう。見てるぞ、と言ってるわけだし」
「二十四時間体制でか? 女の言うとおり隣の学生が犯人だったとして、壁の穴から覗くぐらいでそこまで行動を把握するのは不可能だ。本気でストーキングしていたとしたら、壁に穴など開ける必要はない。覗いていることを印象付けるにしても、もっと効果的な方法はいくらでもある」
そうかもしれない。おれが唸っていると、
「ところで烏丸、おまえは誰が不審電話の犯人だと思う?」
「判らん。隣の学生と大家の婆さんではないと思う」
榊は小さく笑顔を作った。
「だとしたら簡単だろう。犯人は同棲している男だ」
「いや、確かに男のほうは気になった、でも……動機が判らん。同棲中の女に不審電話してなんになる? それに、自分の恋人だったら女は声で気づくんじゃないか?」
「その通りだ。女は気づいていた。というより、一連の騒ぎ自体が彼らの自作自演だったんだと、俺は思っている」
「ちょっと待て。自作自演……それこそ動機が判らない」
おれは困惑しながら、仮に自作自演だったとした場合にくだんの男女がやったであろう事柄を数え上げた。男は女を残して外出し、自室に電話を架ける。それに女が出て、不審電話であるかのように装う。自室の壁に穴を開けておいて、板でそれを塞ぐ。覗いていたのはおまえだろう、と無茶苦茶な言いがかりをでっちあげ、犯人でないと知っている人間のところへ女が文句を言いに行く。
「そういうことか」と問うと、「そういうことだ」と榊は頷いた。おれは僅かに気をよくしたが、いや待て、まだなにも解決していない。判らないのは動機なのだ。ふと喉の渇きを覚え、おれはビールで唇を湿した。だいぶぬるくなっていた。それでも多少、頭が冴えてきた気がした。
「少し戻って考えよう。計画を考えたのは、おそらく女だ。壁の穴からうちを覗いているんだろう、なんてのは男の発想じゃない。たぶん男は命令された通りやっただけだろう。女には、ストーカー被害者を演じる自信があった。それで男に命じて、一芝居打つことにした」
「なるほどな。言われてみれば……女の計画か」
「それで動機だ。まず消去できるのは、隣の学生を追い出すこと、だ。だったら自分たちまで出ていかなくたっていいんだし、そもそもこんな方法をとる必然性もないからな。とすると、他に起こったことといえば――」
「壁の入れ替え?」
ようやく行き着いた。西側の壁だけ真新しい――これが出発点だったのだ。
「そう。きっと、壁に都合の悪いことがあったんだろう。たとえば、なにかが付着してしまった。消そうとしたがうまくいかない。かえって痕跡が目立つようになってしまったか、あるいは該当部分を取り去るしかないほど酷かったか。とにかく確実に、しかも誰にも気づかれないように、自分たちの工作の証拠を消してしまいたい、そう彼らは思っていた。ならばいちばん確実なのは、壁自体を取り壊すことだ」
「ああ、消すなら一部より全部のほうが安心ってことか」
「そうだ。しかし不審がられるわけにはいかない。調べられて、万一なにかが出てきたら終わりだからな。そこで彼らは例の騒ぎを起こした。被害者は女性で、覗かれたことに傷ついている、という話なわけだから、余計な詮索はしにくかったはずだ。学生は学生で、ことを荒立てられたくないに決まっている。隣が覗けたこと自体は事実だったんだしな。それを見越して女は、適当なタイミングで態度を改めて学生に謝罪し、こう話を持ちかける。冷静に考えた結果、警察に届け出るのはやめることにした。そして自分たちは出ていくことに決めた。しかし、あの壁をそのままにしておいたら気分が悪いし、次に入居する人も困るだろうから、取り壊して入れ替えてもらうことにしよう、と。これに学生は同意して、自分も引っ越すことにした。それから、当事者どうしでこういう話になりましたから、と女は大家の婆さんに説明した。婆さんのほうも従わざるを得なくなった」
榊がようやく一息ついて、飲み物を口にした。おれは頷いて、
「覗き魔騒ぎがあった部屋の壁がそのままじゃ、借り手もつかないだろうしな。しょせんぼろい部屋の壁一枚だ、大切にとっておく理由もない。大家の婆さんが踏み切ったのにも納得がいく気がするな」
「もしかすると、予算は自分たちが出すから、で押し切ったのかもしれない。学生には、疑って迷惑をかけたからとでも言っておけばいいし、婆さんは丸儲けだから断る理由がない。トラブルは確かにあったけれども、入居者のことを考えて誠実に対応したんです、という顔をしていればいいだけだ。そして男女の手許には、おそらくまとまった金があった」
「そうして不都合な壁の崩壊を見届けておいて、男女は姿を消した……」
部屋を借りなかったのはそういうわけだ、と榊は締めくくった。おれは吐息し、彼の顔を見返しながら、
「それで、付いていたら都合の悪いもの、というのは、やっぱりあれか? さらに、連中には金があった。とするとその部屋では――」
ところがおれの神妙な言葉を遮るように、榊は大げさに手を振って、
「忘れたか。これはみんな、大家の婆さんの話を聞いて作り上げた、俺の夢想なんだ。おんぼろアパートの壁が一面だけ真新しかった。確実に言えるのはそれだけだ」
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