第8話
その日は遅くまでかかったが、響子が整理しておいてくれたバックアップデータを使ってなんとかトラブルを解消することができた。響子は年齢の割に妙に落ち着いているところがあって機転もきく。響子が自分の部下でいてくれたことを心から感謝した。
家に帰り着いた亮は、疲れ切った体をソファに沈めながら、今日の出来事を振り返った。
深い息をつきながら、亮はスマートフォンを手に取り、例の音声メールを開いた。
「こんばんは。今日も一日お疲れさまでした。」
穏やかな声が、亮の緊張をほぐしていく。
「さて、今日一日、呼吸を意識して過ごしてみましたか?それだけで何かこれまでと違った感覚がいろいろとあったのではないでしょうか?」
亮は、今日の混乱を思い出しながら耳を傾けた。
「今日は、波動を整えるためのさらなる方法についてお話ししていきたいと思いますが、まず波動を整えるために、どんな時も大切なのは、呼吸と同様にゆっくり深く行うこと、まずは一旦速度を落とす、ということです。」
「どんなことでも焦って早くやろうとしても、精度は悪くなるし、結局うまくいかない、今までにも、そんな経験はありませんでしたか?そんな時こそ、深呼吸をして、一度立ち止まることが大切なのです。」
亮は苦笑いを浮かべた。まさに今日の自分のことを言われているようだった。
「そして、普段から掃除、整理整頓を心がけることも重要です。」
掃除?整理整頓?もっと画期的な方法を教えてもらえるのかと思っていた亮は肩透かしをくらったような気がした。
「そんなこと、小学生じゃあるまいし、と思われたかもしれませんが(笑)部屋の中、デスク周り、PCのデータフォルダなど、きれいに整理され、すべて把握できているでしょうか?または、誰かに、何がどこにあるのか教えて、すぐ頼み事を指示できる状態でしょうか?」
そう言われてみれば、クラウドで共有されているデータはプロジェクトごとに誰でも把握できるように整理されているが、自分のデスクやPCの中のデータは、自分の頭の中でなんとなく把握している状態で、今日も響子が整理してくれていたバックアップデータが無ければ、もっと時間がかかってしまっていただろう。自分の身の回りも頭の中も、もっとちゃんと整理整頓しないといけないなと亮は気づかされた。
「部屋やデスク、PCの状態は、頭や心の状態が反映されていると言っても良いでしょう。ですから、まずは常に掃除、整理整頓を行うこと、そして、空間にも時間にも余白を設けることを心がけると良いでしょう。」
振り返ってみると、若い頃は特に、手帳は常に半年先まで予定で一杯で、常にマルチタスクをこなしているのが有能な証、のような気がして、とにかく様々なスケジュールで埋め尽くされていた。いや、埋め尽くそうとしていた、と言った方が良いかもしれない。
それは綾子と結婚してからも変わらなかった。そして、紬が生まれた後も・・・
逆に、この子を守っていかなければならない、という思いが、余計にそんな状態に拍車をかけていたように思う。けれども皮肉なことに、結果としてそれが、家族の絆を綻ばせることになってしまったのだが…
紬のことは辛すぎて、できるだけ思い出さないようにしていたが、思い出すたび、今だにこみあげてくるものがある。
「その余白が、波動を整え、新たな可能性を開く準備となります。また明日から、少しずつでも実践してみてください。きっと、新しい発見があるはずです。」
音声が終わり、亮はしばらくの間、静かに座っていた。今日の出来事、響子の機転、綾子と紬とのこと、そしてこの音声のアドバイス。すべてが不思議とつながっているような気がした。
「少しずつ余白を作る事を意識していこう」
亮は決意を新たにしながら、ベッドに向かう。すぐには横にならず、坐禅のように脚を組んで座り、目を閉じて呼吸に意識を向けた。
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