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私の名前は
栞の母、佳織さんは十年前、当時十才の栞を連れて我が家にやってきた。私は十二才だった。佳織さんはとても優しくて、料理上手で、花に詳しくて、いつも良い匂いがした。母に飢えていた私はすぐに懐いた。そして突然出来た妹の栞。私に比べて華奢で、私とは違う色素の薄い髪と肌。月並みな表現だけど本当にお人形さんみたいだと思った。可愛くて仕方がなかった。今まであまり覇気が感じられなかった父もみるみるうちに元気になって、それからの暮らしは順風満帆そのものだった。
私は高校に上がる頃、自分が異性ではなく同性に強く惹かれていることを自覚し始めていた。私を慕う無防備な妹、栞に対してもそんな視線を向けそうになる度に制した。栞はそんなことは露とも知らず、私と同じ高校に進むと言い出した。
「一年だけだけど一緒に通えるね」
栞は無邪気だった。彼女が友達であろう女子生徒とはしゃぐ姿や、男子生徒と話す姿を校内で見掛けては、そっと瞼を閉じた。
栞は私が卒業する日、こっそり花束を用意して校門で待っていた。
「卒業おめでとう。ちょっと寂しいね。大学も同じところを目指したいけど、頑張らないと」
その幸福と再び訪れるかもしれない苦悶の日々を想うと、記念写真もつい顔が強張った。
四人の生活が始まって七年、佳織さんが交通事故でこの世を去った。私が大学一年、栞が高校二年の時だ。栞は引きこもり、父は再びみるみる憔悴していった。かくいう私も酷く落ち込んだのだけど、二人の落ち込み具合を目にしてなんとか平静を保っていた。
「一緒に家を出ない?」
事故から一年、私は栞にそう提案した。生気を失った父と暮らすことに限界を感じていた私は、アルバイトを掛け持ってお金を貯めていたのだ。栞はその頃、完全な引きこもりからは脱していたが、相変わらず学校には行かずにいた。
「でも、お父さん一人になっちゃうよ?」
「私たちがいなくなれば、家事だって自分でするしかなくなるし、家計のやりくりだってやらなきゃいけないでしょ。その方が父さんの為だよ。それに…」
「それに?」
栞が佳織さんに似てきていることが私は気掛かりだった。父はきっと、栞を見る度に佳織さんを思い出して苦しくなっているはずだ。しかしそれは栞に嫌な思いをさせそうで言葉に出来ない。
「兎に角、考えておいてよ」
結局その一年後、痺れを切らした私は一人実家を飛び出した。栞はついてこなかった。家事とやりくりを殆ど一人で担っていた私がいなくなって、その部分は栞が背負うことになった。父は仕事場と家をただ淡々と往復する日々。心配だったが私には私の人生がある。私がいなければ案外うまくいくかもしれない。そしていつか、栞を迎えに行ければ良いなんて思っていた。
その日。つまり栞が記憶を失った日。夕闇の中、私は久々に実家を訪れていた。暫く連絡も取っていない。恐る恐る玄関を開けて「ただいま」と言ってみるが、反応はない。玄関は開いているし、父のフェアレディZの鍵も靴箱の上に置いてあるから、家にはいるはずなんだけど。廊下を進むと奥で物音がした。何かバタバタとした音と、微かな二つの声。抑えた様な女の子の声と、男の繰り返される「ごめんなさい」。ドアを開ける。
薄暗いキッチンで父が栞を床に押さえつけていた。父は下半身を露出させ、謝りながら栞の中に入ろうとしている。栞の細く白い脚がバタバタと暴れている。意味が分からなかった。でも分かってもいた。キッチンカウンターにはまな板と切り途中の玉ねぎ、そして包丁があった。料理する栞の姿を想像する。佳織さんに似たその姿。弱った父の理性が崩壊したことも想像がついた。理解は出来ても赦すことは出来ない。娘としてなのか、姉としてなのか、それとも恋焦がれた人間としてなのか。私は包丁を手に取った。私も壊れていたのかもしれない。躊躇がなかった。
気付くと大量の血を垂れ流し息絶えた父と、呆然自失となった栞、血にまみれて包丁を片手に佇む自分が在った。
「栞、栞、しっかりして」
肩を揺するがまともな反応が返ってこない。これからどうするか。警察を呼ぶ?しかし私が捕まったら栞はどうなるんだ?頼れる親戚はいない。まともな学歴も職歴もない栞がどうやって生きていく?想像し得る中で最悪の未来を思い浮かべる。私は覚悟を決めた。栞を着替えさせベッドに寝かせると仕事に取り掛かる。幸い我が家の裏庭は塀が高く、土が柔らかい。私は佳織さんがいなくなって荒れた庭を掘り起こし、父と包丁をそこに埋めた。キッチンを徹底的に掃除して、自分の血の付いた服を処分する。シャワーを浴びてクローゼットから昔着ていた服を取り出して着た。やっとひと段落。
「栞、入るね」
ノックして栞の部屋のドアを開ける。すると栞はベッドから身を起こしていた。緊張が走る。なんと説明したものか。
「貴女、誰?」
それが栞の発した言葉だった。彼女は”事故”のことどころか、全てを忘れていた。
説得する手間は省けたものの、純粋に心配だった。病院に連れていくべきなのだろうか?でももしそこで記憶を取り戻して今回の件が明るみになれば、私は逮捕され、栞には更に暗い未来が待っている。このまま私が彼女の面倒を見て、記憶を取り戻した時、方法を考えよう。しかし思考を邪魔する様に父を殺した罪悪感も滲みだす。私の感情は錯綜していた。
「あの、大丈夫ですか?顔色悪いですよ」
と栞が私を心配そうに見つめる。自分が誰かも分からないのに、他人の心配をしている。それでこそ私の愛した栞だ。私もそれに報いる人間でなくてはならない。私はまた別の覚悟を決めた。栞が記憶を取り戻した時、彼女がそれを望むなら、私は自首して罰を甘んじて受けよう。それまでの間、私は栞と、これが最期のつもりで過ごそう。悔いが無いように。
「私は、貴女の恋人」
私は下手な嘘を吐いた。
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