第3話 臭いチーズには蓋をしろ
「所長、こりゃどういうわけなんだ!」
出勤すると管理部のジルが待ち構えていた。頭よりもひげの方が濃い、恰幅のよい中年男は、ご丁寧にプリントアウトした本社のメールを突きつけるように目の前にかざしてくる。
「朝から怒鳴らないでくれ。そこに書いてある通りだよ。あと二か月でこの工場は閉鎖だ」
「そんな馬鹿な!」
通達は工場の責任者クラスの人間に一斉送信されていた。
──経営上の理由により、本年三月を以て本工場を完全閉鎖とする。
それは事務的な、血の通わない文面だった。
そして私はなぜ自分がこの末端の工場へ飛ばされたのかを、今更のように理解していた。
おそらくずっと前から決まっていたことだ。あとはそれを誰が片づけるか。私はそれを仰せつかったのだ。臭いものに蓋をする役目を。
ジルは私ににじり寄った。
「留保金をあんなに貯め込んでこっちを切るたぁ血も涙もねえじゃねぇか、え?」
「失業保険は保証されてる」
「雀の涙だ。工員の暮らしはどうなる? 六十人の人間を路頭に迷わせるつもりか。あんた、本社に交渉してくれ。それが所長としての務めだろう」
「それは──」
言葉が詰まった。
確かに工員たちは路頭に迷うだろう。だが私の脳裏には、通告とは別に人事部長から私だけに送られたメールの文面が浮かんでいた。
『閉鎖に向けて万事穏やかに進めてくれたら、君にはその後の本社復帰を約束する』
いまだに馴染めないこの土地に何の未練があるだろうか。
「……最大限の努力はするよ」
ジルの血走った眼をまっすぐに見ることができなかった。
*
昼を待って逃げるようにノラの食堂へ向かうと、店の前には人だかりができていた。昼飯を食べに来た客が遠巻きに眺めている。その視線の先には、なぜかうちの工員たちがなにやら一生懸命にドアや壁をこすって洗い流している。
「今日は開かねえかな」
「よそ行って食うか」
ひそひそ囁き合う見物人をかき分けて前に出た私は絶句した。そこには黒いスプレーでこんな殴り書きがされていた。
『前科者』
『人殺し』
『出ていけ』
乱暴にぶちまけられた文字に背中が凍った。
「おい、いったいどういうことだ」
壁に張りつくようにして落書きを消している工員に声をかけると、彼は振り返りもせず答えた。
「ひでぇことをする奴らがいらあ。ヒボーチューショーってやつだ。夜のうちにやられたらしい」
洗剤で真っ赤になった手で汗をぬぐう。
「ノラはどうした?」
「中にいらあ」
だがドアを開けて入ろうとする私を工員は引き留め、
「ちょうどいい、所長も手伝ってくれや」
ドスの利いた声で、黒く汚れたぼろ布を差し出した。
刑務所から出てきた者のための社会復帰支援を得てノラが立ち上げた店。それが『シェ・ノラ』だと、その日私は初めて知った。だからここで働いている者──曜日ごとに変わる給仕係も、調理補助も、そして、ノラ自身も──元受刑者である。
ようやく合点がいった。なぜ昼しか営業せず、そしてこんなに安く食事を提供できるのか。
私たちは黙々と落書きを消した。途中で近所の人が洗剤やたわしを差し入れてくれた。シャツの腕を捲って必死にこすりながら、この店に、いや、ノラに対する人々の愛情をひしひしと感じていた。
ここまで愛される女が、なぜ前科者なのか。
──そんな言葉、おいそれと口にするもんじゃない。
あのときのセリフが胸に落ちた。私の自虐は疚しさへの薄っぺらい言い訳であった。
「ありがとね、みんな」
やっとドアが開いてノラが顔を出したときの安堵は、いたく忘れがたい。
「あんな落書き、気にするこたないぜ。あんたは俺らが守ってやる」
「犯人を暴き出してボコボコにしてやンだ」
「おうよおうよ」
「やめときな。どんな連中かぐらい、あたしにも見当はついてる」
威勢のいい若い工員をノラが制した。
「嫌な世の中になったもんだな」
「まったくだ」
中堅たちが眉を曇らせて腕組みをする。
ほかの客が帰ってしまったため、店内は工員たちと私の貸し切りであった。私は初めて工員たちと同じテーブルについた。
「こんなのしか出来なくて悪いけど……あたしからのお礼だよ」
ノラが運んできたのはこの地方のチーズをふんだんに使ったタルトだった。クリーミーな表面には香ばしい焼き色がついている。
しかし。
「臭ぇ!」
強烈なチーズの匂いがみんなの鼻をつんざいた。たくし上げたシャツの袖に思わず鼻を突っ込んでしまうほどだ。
だが、ひと口食べたらやめられない。チーズのなめらかさ、タルトのサクサクとした食感とこの匂いがどうしようもなくあとを引く。
「臭ぇ! でもうめぇ!」
みんな顔をしかめながら笑っている。
気がつけば切り分けたタルトはあっという間に腹に収まってしまった。
「ノラ、ごちそうさん、元気だせよ」
「ありがと」
カウンターの隅でこっそりと目元をぬぐうノラに、誰も気づかないふりをした。
連れ立って店を出ながら、袖口を嗅いだ私はひそかに苦笑した。みんなと同じ匂いのついたシャツは、決して嫌なものではなかった。
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