第2話 群れから外れたイワシのマリネ
それからというもの、昼どきになると私は毎日この食堂へ通うようになった。ノラの料理はどれも絶品で、朝から昼休みが待ち遠しくなるほどだ。一日の楽しみが昼食だけとはいい歳をして淋しいものがあるが、温かい食事に胃袋が満たされるこの時間だけは、日頃の憂鬱を忘れさせてくれる。
しばらく通ううちにノラの方でも私を覚えてくれたようで、
「いつものだね、所長さん」
そう言って申し合わせたようにたっぷりのご馳走を出してくれる。常連の扱いを受けるのは都会に住んでいた以来なので気分がいい。
それにしても、こんな田舎でこんな素晴らしい料理屋に出会えるとは。大雑把な盛りつけはいかにも大衆食堂だが、口に運んでみるとひと味違う。見た目のわりに繊細で奥深いのだ。
例えば今日の日替わり。イワシのマリネをオーブン焼きにしたものである。外側のパリっと焼き上げた食感がたまらない。マリネの汁を吸い込んでふんわりと柔らかな身は、はらわたの苦みすら旨みに感じる。イワシなど安物の魚だと思っていたが、こんな複雑な味が隠れているとは驚きだ。これもノラの腕のおかげだろう。
──などと目を細めて堪能していると、
「こっちパン追加!」
「大盛りで!」
真ん中の大テーブルから声が上がる。うちの工員たちだ。
彼らは必ず数人で大テーブルを陣取っている。私がいつもの隅の席につくのを見かけてもそっちのけで、下品な冗談を言ってはゲラゲラ笑っている。私の方でも彼らと一緒に食事をしたいとは思わないから、この距離感はちょうどいい。
彼らはこの一帯の出身者で、大した学歴も持たず、とりあえず糊口をしのぐために稼ぎに来ているのがほとんどだ。
失業率の高いこの地方で、不平を垂れながら朝からビールを飲んでいる連中よりはましだろうが、中堅から新人まで、いかにも扱いづらそうな面構えの工員たちは、今まで縁のなかった人種である。彼らの発する田舎臭い訛りも、私を遠ざける一因だった。
見るともなしに様子を窺っていると、食べ終わった工員たちは重い腰を上げるようにやれやれと立ち上がった。チラリと私を見て軽く会釈し、お互いにひそひそと囁き合いながら去っていった。私は急に途方もない疎外感ときまりの悪さを感じた。
「浮かない顔だね、所長さん」
コーヒーを運んできたノラがニヤッと笑いかけた。前歯のない歯茎がむき出しになるが、一向に気にしていない。
「そんな顔してるかね」
「ああ。淋しそうな顔してるよ」
「そんなこたない」
ついムキになって返すと、ノラは薄く笑って勝手に向かい側の椅子に腰かけ、私の顔を覗き込んだ。
「あんた、前はどこに?」
「ずっと本社だよ。工場なんて管轄外だ」
そう答えて薬のように苦いエスプレッソをぐいと流し込む。
業者から内密にリベートを受け取ることに躊躇がなかったといえば嘘になる。
だが仕事を回している立場としてはお互いに持ちつ持たれつというところもあり、言わば暗黙の了解であった。
何の証拠もないため発覚する恐れもなかったはずだが、こうして出向という形で失脚したということは、何かを嗅ぎ取られたうえでの罰だと考えるしかない。
息子が独立したあと、妻と二人で暮らすはずだった郊外の家は、まだ買い手がつかない。
「島流しと同じだよ──私はね、前科者なんだ」
ノラの濃い眉が一瞬けわしく曇った。
「そんな言葉はおいそれと口にするもんじゃない」
驚いて見上げると、彼女は一気に破顔して声をたてて笑った。
「物々しい言い方で気取ったってしょうがないよ。気持ちを切り替えてさ、たまにはあの連中と一緒に食べて仲良くしたらどうだい」
「工員たちとかい」
思わず鼻で笑った。
「いい大人がああやって群れてるのは、どうにもみっともないよ。第一なんで私が頭を下げて仲間に入れてもらわなくちゃいけないんだ」
ノラは呆れたように肩をすくめた。
「ずいぶん格好つけるね。群れるとか群れたくないとか、そんなこと言ってる奴に限っていちばん自分の居場所を気にしてるもんだよ」
胸の内を見透かされたようでどきりとした。
「私にだって選ぶ権利はある」
「あんたは出世コースから追ン出されたことを根に持ってるだけだろ」
「言ってくれるね」
「認めたくないからってひとりで強がってもしょうがない。そんなしみったれた顔してたら寄りつくもんも寄りつかないよ」
「あんたに何が分かる。あんたこそ、その──」
前歯はどこに置き忘れてきたんだ、という言葉をすんでのところで呑み込んだ。
「悪いけど、この顔があたしの看板なんでね」
ノラは低く笑った。
「みんな今の自分がいる水の中で精一杯泳いでるんだ。出世コースの群れだろうが、工場で働く群れだろうが、最後にゃ一匹ずつ皿に乗せられておしまいさ。それなら笑ってた方がいいだろう。役に立たないプライドなんか、イワシのはらわたほども食えないよ」
そう言ってノラは皿に残った魚の骨を見下ろした。
*
群れから抜けた魚が一匹、あてどなく海の中をさまよっている。一寸先も見えない暗い水はこの町の空と同じ鉛色だ。
魚の行く先に大きなサメの口が開き──
うなされて目を覚ました。枕元の水を一気に飲み下す。
あんな夢を見たのは、ノラの言葉がまだ魚の骨のように引っかかっているからだけではない。
本社から届いたばかりの通達は、私を呑み込むサメだろうか。それとも──
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