ノラの食堂 輝きそこなった星の群れ

柊圭介

第1話 孤独な鶏のトマト煮込み

 その店には『シェ・ノラ』と書かれた木の看板が提げられていた。


 工場から歩いて十分ぐらいのところにある、安直な食堂である。町はずれの寒々しい通りの角にぽつんと営業しているその店は、気をつけていないと通り過ぎてしまいそうなほど、地味で愛想がなかった。

 昔の私であれば鼻にもひっかけないであろうその店に入る気になったのは、安くて美味いという工員たちの評判を耳にしたからである。


 本社からこの土地へ移って三か月が経った。五十の声を聞くまで順風満帆だったところへ、突然この町にある末端の部品工場への出向を命じられた。所長という肩書きではあるが、平たく言えば左遷である。

 給料は大幅に減った。田舎で大した店もないわりに値だけは張るので、外食代も馬鹿にならない。おかげでこの三か月は、昼食といえば近くのパン屋で買う代わり映えのしないサンドイッチばかりだった。



「日替わりをひとつ」


 隅の席に案内した給仕の女にそう告げると、私は改めて店の中を見渡した。

 昼どきだからか店は混んでいる。うす汚れた漆喰と飴色になった木組みの古くさい建物だが、見た目とは正反対の活気である。この町のどこにこんなに人がいたのだろう。

 真ん中には木製の大テーブルがあり、うちの工員たちが頭を突き合わせて旺盛な食欲を見せている。食べるのに夢中で、店の片隅に座る私に気づく様子はない。


 食べ物の匂いに、ナイフとフォークが皿にぶつかる音、絶え間なく混ざり合う声。天井にこもるすべてのざわめき。煮詰まったような喧騒の向こうで、下働きらしい小柄な女が、野菜の入った木箱を抱えて厨房へ入っていく。

 使い古されて曇ったグラスからぬるい水をひと口含むと、自然とため息が出た。



 あのころは会社を背負って立っているような誇りとやり甲斐を感じていた。出世頭とちやほやされたときもあった。だが転げ落ちるときはあっという間なのだ。

 工場の事務机に向かい、業務に忙殺されるだけの日々で脳裏によぎるのは、羽振りが良かったころの孔雀のような己の姿。その残像が余計に今の挫折感をあおり立てるというのに、どうしてもそこから逃れることができない。


 慣れなければならない。

 ひとりで食べることにも。

 誰とも笑顔を交わさずに一日を過ごすことにも。

 息を殺して淡々と暮らす、この町にも。



「日替わりお待ちどぉ!」


 威勢のいい声が上から降ってきて、目の前に皿がどんと置かれた。はっと顔を上げると、さっきの給仕の女がニヤリと愛想笑いをした。

「あ、ありがとう」

 たじろいで礼を言いながら皿に目を落とし、私は思わず瞬きした。


 そこにはあふれんばかりの鶏のトマト煮込みが盛られていた。

 真ん中に鎮座した骨つきの鶏もも肉の上には、ごろごろと大ぶりな野菜がどっさりと乗っている。これは何のスパイスだろう、食欲を刺激する香りがする。

 豪快な皿を前に我に返った。そうだ、私は腹が減っていたんだ。

 早速ナイフを入れ、ひと切れ口に入れた途端──私はもう一度目を見張った。


 美味い。

 鶏はほろほろと柔らかく、トマトとハーブの香りがしっかりと染み込んでいる。一緒に煮込まれたズッキーニや人参も鶏の脂を吸ってコクがある。塩加減もちょうどよく、食材の甘みを引き出している。

 これは驚いた。値段以上の味じゃないか。

 私は夢中で鶏を平らげた。久しぶりにあたたかい昼食を食べる喜びに包まれた。安直な食堂だと思ったのが申し訳ないぐらいだ。


 腹いっぱいになるとようやく人心地ついた。あたりを見回すと、いつの間にか客はほとんど引けていて、さっき野菜を運んでいた下働きの女がレジのところにいるだけだった。

 手を挙げてコーヒーを頼むと、女はすぐにエスプレッソを淹れて運んできた。


「どう、美味しかったかい?」

 カップを置きながら女はくだけた調子で尋ねる。

「いやぁ、美味しかったね。食べきれないかと思ったけど、ぺろっといただいたよ」

「そりゃよかった」

「こんなところに一流のシェフがいるとはね。しかもこんな値段で食べられるなんて、ありがたいよ」

「そうだろう。あたしは安くていいものをみんなに食べさせたいんだ」

「……え?」


 私は女の顔を見上げた。四十代半ばといったところか、浅黒い痩せた風貌である。色褪せたエプロンにはトマトソースのしみがこびりつき、足元は脂で汚れた厨房靴を履いている。


 ──まさか。


「あの、ここのシェフって」

「あたしだよ」


 女は口を引き上げてにいっと笑った。上の前歯がふたつとも欠けていた。


「ノラ! 八百屋から電話だよ!」

「あいよ!」


 ノラと呼ばれた女はカウンターへと戻っていった。私は呆気に取られていた。下働きだと思っていた女はこの店のシェフであった。


 コーヒーを飲み干すと、私は不思議な気分で工場へ戻った。彼女の満面の笑顔と、欠けた前歯が脳裏に刻みついていた。

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