第33話 壊れた鏡
優子が目を覚ました時、周囲は異常に静かだった。病院の薄暗い部屋、かすかなライトの下で、彼女は背中に重い感覚を抱えながら、ゆっくりと目を開ける。しかし、すぐにその場の空気が違和感を放っていることに気づく。
床には血痕が広がり、天井の隅には奇妙な黒いシミが残っている。だが、それらはまるで現実のものではないかのように、彼女の視界に異常な鮮明さで映し出される。
「……ここは……?」
声を出すことすら恐ろしいほど、部屋は静まり返っている。だが、彼女は心のどこかで感じていた。これから何かが起こる予感が、胸の奥をぐっと締めつけていることを。
「……優子さん。」
突然、耳元で佐藤の声が聞こえた。振り向こうとしたその瞬間、背後から冷たい手が首に触れた。触れた感覚が、生温かく、そして無機質で、彼女の体を完全に凍りつかせた。
「だめ……」
小さく呟いたが、声は震えていて、意識が遠のく。視線の端に映ったもの――それは、どこかで見覚えのある、醜く歪んだ顔だった。目はただ白く見開かれ、鼻腔からは血の臭いが漂ってくる。
「来た……。」
佐藤の声が、目の前に突然現れた。彼の顔には薄暗い恐怖が浮かんでおり、普段の落ち着いた雰囲気はどこかに消えていた。彼の手が震えていることに、優子は気づく。
「どうして、こんなところに……?」
優子はついに立ち上がり、病室の奥を見つめる。そこには、何もなかったはずの扉が開いており、その先からひんやりとした風が流れ込んできた。風に乗って、遠くから微かに聞こえるのは、誰かが呻く声。
「もう……戻れないのか?」
優子は、何もかもが現実か幻覚か分からないまま、足を踏み出す。だがその瞬間、足元の床が軋み、彼女の足元から何かが突き出た。振り返ると、そこには無数の釘が床から突き出ており、その先には赤黒い液体が滲んでいた。
「うわっ……!」
その液体が優子の足元を覆い始め、身動きが取れなくなる。彼女は必死で足を引き抜こうとするが、釘が肌に突き刺さり、激しい痛みが走る。
「誰か……助けて……」
優子は声を上げようとするが、その言葉さえもまるで耳を突き刺すように響き、部屋の隅に影がひとつ、動いた。
「助けて?」
その声は、彼女の後ろから聞こえてきた。振り返ると、そこに立っているのは、まるであの時のモモのように見える影だった。しかし、その顔はもはや彼女の知っているモモの顔ではない。
血の涙が彼女の顔を伝い、ぼやけた視線の先でモモはゆっくりと笑った。だが、その笑顔はどこか歪んでおり、目が完全に開かれていた。
「助けて欲しいのは、あなたじゃない。」
モモが口を開いた瞬間、その声はまるで何人もの声が重なったような、不自然な響きを持っていた。優子はその言葉を聴いた瞬間、全身が硬直し、冷たい汗が一気に流れ落ちた。
「モモ……?」
優子は呆然とその影を見つめる。だが、モモは言葉を続けることなく、ゆっくりとその足音を立てて近づいてきた。その足音は、まるで地面に吸い込まれるように、どんどん大きくなる。
「あなたは、逃げられない。」
優子はその瞬間、突然目の前に現れた鏡に気づく。だがその鏡は、普通のものではなかった。鏡の中に映っていたのは、彼女自身の姿ではなく、血に染まったモモの顔だった。
「逃げられない。」
その言葉を最後に、優子は恐怖で身体が動かなくなり、目の前の鏡をじっと見つめた。鏡の中でモモは、ゆっくりと口を開き、冷たい笑みを浮かべていた。
その時、彼女の体が何かに引き寄せられるように、鏡の中に吸い込まれた。
「いや……!」
優子は必死に抵抗しようとしたが、その瞬間、鏡の中の世界が一変した。彼女は無数の目に見つめられ、周囲には見覚えのある顔が次々と現れ、無言で彼女を睨みつけていた。
その目は、彼女の過去を知っている目だった。無視してきた過去、忘れたはずの過去が、今やこの場所に集まり、彼女を責め立てる。
「あなたのせいだ。」
その声が次々と響く。優子は目を閉じたが、再びその声が彼女を包み込む。
「あなたがやったんだ。」
その声に耐えられなくなったとき、優子は鏡を叩き割ろうと手を伸ばした。だが、手が触れる瞬間、鏡は一瞬にして割れ、彼女はその破片に包まれ、血まみれとなって崩れ落ちた。
その時、部屋の隅で佐藤の姿が見えた。彼の目が冷たく、無表情で彼女を見つめている。
「お前がそうしたんだ。」
その言葉が、暗闇に吸い込まれた。
優子はその後、全ての記憶が断片的に崩れ落ち、意識が深い闇へと沈んでいった。
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