第20話 病室からの解放

退院の日が訪れた。窓の外では冷たい冬の空気が乾いた木々の枝を揺らし、淡い陽光が差し込んでいた。優子はベッド脇の小さなテーブルに置かれた荷物を見つめながら、心の中で静かな安堵と不安が入り混じる感覚を抱いていた。


「退院、おめでとうございます。何かあったらすぐに連絡してくださいね。」

看護師は優しく微笑みながらそう言ったが、その言葉に潜む微かな憐れみを優子は感じ取った。


「ありがとうございます。」

優子は簡潔に答え、荷物を持ち上げた。


エレベーターを降りると、病院の入口で佐藤が待っていた。彼の顔にはいつもの穏やかな笑みが浮かんでいたが、優子にはどこか作り物のように感じられた。


「優子さん、大丈夫ですか?家までお送りしますよ。」


「……いえ、一人で大丈夫です。」

優子は断ろうとしたが、佐藤は引き下がらなかった。


「いやいや、こんな寒い中、一人で帰るなんて無理しちゃいけないよ。僕も気になるしね。」

その言葉に、優子はやむを得ず頷いた。


病院の駐車場に停められた車に乗り込むと、車内にはヒーターの温かな空気が満ちていた。それでも、優子の心には冷えた感覚が張り付いたままだった。


「退院後、生活リズムを少しずつ整えていきましょう。あまり無理せず、ゆっくりとね。」

佐藤は運転しながら、優子に語りかけた。その言葉は親切そのものだったが、優子の胸には奇妙な違和感が残っていた。


「あの……佐藤さん、前に来た男の人のこと、知っていますか?」

優子は思い切って問いかけた。


「男の人?」

佐藤は一瞬、眉をひそめた。


「はい。スーツを着た、中年の男性です。私に『見つけてほしいものがある』みたいなことを言っていました。」


「そんな人……病院で会ったのかい?」

佐藤の顔には困惑が浮かんでいたが、優子にはどこか演技のようにも見えた。


「ええ。でも、名前は名乗りませんでした。」


佐藤はしばらく黙り込んだ後、「気のせいかもしれないね」とだけ言った。それ以上の追及をする気配はなかったが、その言葉にはどこか曖昧な響きがあった。



自宅に着くと、佐藤は荷物を部屋の中まで運び入れ、念入りに室内の様子を確認した。


「何かあったら、すぐに知らせてくださいね。」

佐藤はそう言い残し、去っていった。


優子は一人残された静かな部屋で、あらためて自分の胸の中に巣食う不安に気づいた。モモがいないリビング。冷たく乾いた空気。


荷物を片付ける手を止め、優子は部屋の隅に置かれたモモのクッションを見つめた。その上には、モモが好きだった毛布がそのままの形で置かれていた。


「ただいま……」

優子は誰もいない部屋に向かってそう呟いた。その瞬間、冷たい空気が肌を撫でるように動いた気がした。


夜が訪れ、優子はベッドに横たわっていたが、眠れなかった。病院で感じた囁き声や不安定な感覚が頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。


そのとき、不意にリビングから微かな音が聞こえた。


「カタッ……」


目を開け、耳を澄ませたが、それ以上の音はしなかった。優子は布団をかき寄せ、目を閉じたが、心臓の鼓動だけが耳に響く。


「また始まるの……?」

優子の胸に恐怖が広がり始める中、彼女はもう一度自分の現実に疑念を抱いた。

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