散文詩でも引用してお茶を濁そう
以前より僕は言葉が生きている瞬間とはいつの事を指すのだろうか? という問題について考えてきました。言葉が詩人の音声として発せられる時あるいは詩人の著書として本にまとめられる時はたしてその場において「言霊」は「生きている」といえるのでしょうか? この件について考えるためにはまず「人生」について考察してみる必要があります。「人生」は当人が生きている限り常に未完成なものであり続けるものです。そしてその「人生」が完成する時とはすなわち「人生の終焉=死」を意味するわけです。それと同様に「言葉」もまた詩人の頭の中で「未完成な詩」として考えられているうちはまだ「生きている」わけですがひとたびそれが現時点での「完成した詩」として書かれたり読まれたりして読者の前に晒されてしまう時その「言葉」はもはや「死」を宣告されてしまっているわけです。ですから「完成された言葉の命」をまとめたものである「書物」とはまさに「言葉の骨壷」なのであり「書物の題名」とは「言葉の墓標」なのです。そしてまた「未完成な言葉の命」を道具として操り「完成された言葉の亡骸」として「死=詩」を綴る我々「詩人」は「言葉の亡霊に呪われた言霊使い」として「言霊供養」のための余生を生きていく宿命を背負っていかざるを得ないのです。かつての詩人の中にもこの「言霊の怨霊」に呪われて夭折した詩人たちが多く見受けられます。ランボーしかり中島敦しかり中原中也しかり寺山修司しかり。長寿をまっとうできた詩人も数多くいますがそれは彼らの常軌を逸した生命力の強さに拠るものです。通常の生命力では言霊の怨霊に食い殺されてしまうものなのです。これは単なる偶然ではありません。詩人とは言霊の怨霊に呪われながら言葉の死骸を操る「悲しき言霊使い」の別名に他ならないのです。
いまは亡き著者名ばかり並びたる吾が本棚は墓場のごとし
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