苦し紛れに普通の小説のふりでもしてみようか
東京とベッドタウンを結ぶ国道十六号線は殺人的な交通量の激しさにより今日も排気ガスで霞んでいた。それでもなお歩道の狭間に設けられたほんのわずかな植樹スペースに健気にも咲き続ける名も知られぬ可憐な花。それが君であり私だ。花の名前を知らないままでは心もとないので仮に地球の重力に逆らって屹立する阿部公房の前髪の強さと宇宙の引力になすがままのドストエフスキーの顎鬚の重さとする。同じ数値ということは考えられないだろうか。無理である。だがしかし不可能を可能にできるのもまた文学の素晴らしさのひとつだ。小説に書かれたことは全て真実なのだ。何故なら小説には小説しかないから。これが映画なら音楽や演技があるし音楽には歌や楽器があるけれども文学には文学しかない。語りえぬものについては沈黙しなくてはならないとヴィトゲンシュタインは言ったが語らぬことには文学は成立しない。かといって物語るだけなら文学でなくてもよいのだ。漫画や音楽や映画やゲームがある。他の媒体では出来ないことをするためにこそ我々は小説を書くのだ。私小説は小説の私であり恋愛小説は小説と恋愛し冒険小説は小説を冒険して推理小説は小説を推理する。この潔さこそが我々を魅了して止まないのである。いかにフリーターやニートが唐木編集長に嫌われていようとも大した問題ではない。僕が文学を愛している。私が文学だし。何より小説は自由だから。そして平和です。小説に書いていけないことはないし滅多なことを書いたところで小説そのものに被害は及ばない。実害があるとすればそれはあくまで小説の外の出来事に過ぎないのだから当然である。だから小説は決して過ちを犯すことがないのだ。なんて素敵なことでしょう。だから我々はこんなにも小説家になりたかったに違いないのです。これは紛れもない真実です。だってそうでしょう。君も馬鹿じゃないのだからわかっているはず! 僕は馬鹿だけど君ほどじゃないですもの。実に晴れ晴れとした清々しい気分です。ここで背後から殺気。猫かと思って振り向けば内縁の妻が真夜中にキーボードを叩く音がうるさいと包丁を突きつけてきた。ラジカセやメガネが壊れる類のいざこざを経て数日間は執筆不能となる。ふと気が付けば応募締切日の夕刻であった。最初の予定では喘息の療養で先月から仕事を休んで書いていることから禁煙とダンディズムの関連性について触れようかとも考えてみたがもはや手遅れだったらしい。ここはとりあえず私がかつて書いた散文詩でも引用してお茶を濁そう。
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