全ての未完小説は世界の終りを告げている

 おい何をする! チビ子の仕業か。猫の名前である。子猫だからというのも当然あるだろうが野良だったせいかヤンチャすぎて困る。知人が拾ってきたのを連れてきたのだ。先住猫であるヘガちゃんとは大違い。ヘガちゃんは血統書付きロシアンブルーのブリーダーさん宅で生を受けた雑種だ。厳重に監視されているはずがどういう経緯か他の猫の血が混じってしまったのである。野良猫が迷い込んだかはたまた母猫が外に出たのか定かではない。通称の由来は滅多に鳴かない事でミステリアスな雰囲気を醸し出すロシアンブルー特有の掠れ声から来ている。ちなみにヘガちゃんは良く躾けられているので食卓やキーボードに乗ることはない。チビ子は人間様の事情などお構いなしで困っている。行きがかり上うっかり猫の話になってしまった。それにしても文学者に猫好きが多いのはなぜだろうか。漱石や百閒は元よりW村上から笙野頼子に保坂和志と町田康も無類の猫好きらしい。何か気質として通ずるものがあるのだろうか。猫は犬に比べて奔放で野性的だからじゃないか。文学には野性的な知性が求められるということだろう。どういうものを書くかは個人の勝手だ。読むのもしかり。選び選ばれることもまた自由に決まっているじゃないか。なぜ小説を書くのかも考えぬまま専業作家になってしまう天才は意外と少なくないのではないか。それに比例して考えない秀才の作家志望者も掃いて捨てるほどあるだろう。金のため名声のためだなんて冗談はゴシップ記事だけにしてくれ。財産や名誉をつきつめれば最大多数の最大幸福に繋がると洗脳されているだけだ。万人共通の幸福なんて弱肉強食の食物連鎖が絶対の自然の摂理から外れた妄言である。好きなことを続けられる人生に勝るものはなかろう。小説を愛するがゆえ憎む迷いこそが本質である。この距離感なくして本当の文学は成立しない。これはまるで小説の序文に過ぎない。本文のない前書きに何の意味がある。本文はデビュー後にプロとして書くしかない。だからこの作品は受賞することを前提として書かれている。一見どんなに無関係な小説のように見えても一人の作家が発表する作品は全て連作なのだ。だから全ての文学作品は作者自身の死を持って完結する。先に作品を完成させるには自ら命を絶つしかない。しかも作品が作者の歿後なお流通し続ける限り作家は概念として生き続けることになる。結局のところ読者がいる限り作家は死ぬことがないのだ。それでは名のある文学者は誰もみな未完成で忘れ去られた者たちだけが完成形だとでもいうのか。それはおかしいだろう。おかしくなんかないさ。だって消え去ることと完成されてしまうことは同義だから。名作は未完成だからこそ時代の変遷と共にいつまでも価値を発展させてゆくことができるのだ。そして文学は一人の作家によって完成するのではなく永遠に未完成のまま人類と共に作り続けられてゆくことだろう。もし文学が終わることがあるならそれは人類の滅亡するときだ。その瞬間までついに我々が答えを見出すことは不可能に違いない。ゲーデルの不完全性定理を引き合いに出すまでもなく自明の理である。苦悩は苦悩であり小説は小説だが双方とも書かれた時点で作品となる。もはやそれは作者のものではなく社会の共有財産だ。かといって無料公開していては作品の価値を判断できない。幾らでどれだけ売れるかが価値の全てではないが指針にはなりうるし何より経済社会の洗礼を受けることによって作品自体が社会的価値を生む。作家は作品が社会性を持ってくれることによって本人がいかに社会的マイノリティであろうとも堂々と生きていけるようになるのだ。作家にとって作品を綴ることが即ち生きる証なのだ。そうでなければ誰がこんな恥ずかしいものを世間にさらせよう。露出狂じゃあるまいし。そもそも小説は自然に五感を侵食するような暴力的表現形式とは正反対の存在だ。受け手の意思なくしては効力を持たない非暴力の権化だ。言葉の暴力などという言葉で本物の暴力を擁護すべきではない。暴力は命を奪うが言葉は命を与える。感性や感情や無生物は名付けられてはじめて社会的な命を得る。言葉の世界では死せる者も生れぬ者も等価である。視覚聴覚嗅覚味覚と発想のきっかけが何であれ人間の頭脳は言葉でものを考える。言い表せないことも例外ではない。むしろそれを言い知れぬ格闘の末に言葉にすることが文学なのだから。その文学の最終形態として現存する小説という表現形式こそが今や万物の名付け親なのである。創めに言葉ありき終りにもまた言葉すなわち小説がある。作家が死ねば一市民としての彼の日常世界は終るかもしれが彼の遺した言葉がある限り彼の世界は続く。全ての未完小説は世界の終りを告げているのだ。五十枚の短編を書くつもりだったが色々と付け加えるうちに八十枚という半端な枚数になった。既に二十枚分は削っていたというのに因果なものだ。いずれにせよ二百五十枚の規定枚数の上限を超過しない範囲なら問題あるまい。九十枚の受賞作もあるらしいし作品にちょうどいい枚数であればいいのだろう。果たしてそれがこの作品にも当てはまるかどうかは定かではないがこの際どうでもいい。好きなだけ書いて運を天に仰ごうという按配である。寺山修司は大いなる問いでありたいと願ったが少なくともこの文章には該当しない。必ず答えが導き出される確信があってこそ書ける代物なのだ。心に希望を持ち続ける限りきっと傑作にならざるをえないのです。どうか最後まで読んでほしい。無改行無読点の煩雑さに辟易されるのも無理はなかろう。谷崎の卍で出会った趣向なのは慥かであるものの別に心象のリンクを意図しての方法論かどうか定かではない。ところで今のは誰の科白だ。はてさて誰かしらん。もはや誰と誰が何のために何の話をしているのかわからないとは話にならん。話にならないのは当然だ。話ではなく文学であり小説なのだから。さてどうしたものか。苦し紛れに普通の小説のふりでもしてみようか。

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