オナニーじゃないか
こんなわけのわからないもの誰が読むんだ。オナニーじゃないか。いいかげん目を覚ませ! 恥を知れ! 偉そうにするな! 何ですかそのいいざまは。偉そうなのは貴方でしょう。僕を誰だと思ってるんです。主人公なんですから。作者が口を出すなんてもってのほかです。だって考えてもみてくださいよ。現時点で最新の芥川賞受賞作はフリーターの三十路男を主人公にして世相を反映させたつもりらしいが著者の伊藤たかみ本人は若くして作家デビューしているくせにひどいと思いませんか。長いこと作家としての経験を積んできたのだから当然リサーチも万全でリアリティ溢れる内容だと評価されているにしてもどんなに取材を繰り返そうと他者の内面を解き明かすことなんかできるものですか。作者にとっての客観は作者の主観であり全ての文学作品は押並べて私小説でしかないのです。青春小説がもてはやされる時流も省みずどうしてこんなものを応募するのか気が知れない。誰が好き好んで三十路男の私小説まがいなんぞ読みたがる。若者を主人公とした来るべき世代にアピールできるものを書けないのか。若者が主人公の青春小説がベストセラーになったことなんてあるもんか。ノルウェイにしろセカチュウにしろ三十路男の回顧小説だ。綿谷金原はおっさんどもが慰みに読むキャバ嬢みたいなものだろう。女性読者も多いと聞くぞ。それは読者も水商売だからだ。この男は何ていい加減なことを言うのだ。君が年齢や性別といった小説そのものとは無関係な事柄ばかり指摘するから天邪鬼に反応したくなっただけだ。作品以外の余計な情報に左右されるようでは純文学の読み手として失格だ。それは君も同じではないか。作者の人となり如何で褒めるも貶すも同類だ。漱石や太宰だってルックスがいいが彼らは決してそれだけではないのは誰もが知るところだ。そういえば猪瀬直樹の『ピカレスク』によれば太宰は僕と身長が同じだったらしいね。時代が違うからそれでもかなり大柄だったんだろうさ。弟分の壇一男は百八十以上あったみたい。身体を使うでもない文学者の体躯が大きいのは不思議だ。顔を出さない仕事なのに顔がいいのも不思議。むしろ恵まれているからこそ興味がないのかもしれない。芸能人の誰しもが優れた外見を持っているわけではないだろう。ルックスを売りにするのは下品だという考えなくして芸術を語ることは出来ない。芸術の女神ミューズは色情狂なので色香に惑わされて判断を誤る事もしばしばだ。しかも彼女は両刀使いなので美貌の持ち主には性別を問わず愛想を振りまく。そして彼女に見初められた美貌の持ち主は芸術表現の場において分不相応な成功を収め実のない水物の一流の名を欲しいままにするがそのうち彼女に愛想をつかされて力尽きるのだ。僕も少なからず芸術表現に携わる人間として時には気まぐれな彼女の判断を信じてしまう事もある。しかしそれは決して厳正な選考の元に下された答えではないのだ。僕は水物ではなく本物の価値あるものを見極められる人間でありたい。だから僕は出来るだけ自分の判断力を磨くために努力していきたいのだ。売れているものがすなわちいいものだなんて白痴じみた妄信は止せ。ミューズに騙されるな。いっそ鯨統一郎や舞城王太郎や坂木司のように覆面作家としてやっていくべきなんだ。その三人はエンタメ作家だろう。まあ舞城は微妙か。そもそも中庸をアピールするならエンタメか純文学かなんて考えるまでもなく乱歩や久作ら新青年メンバーによって目論まれた中間小説という都合のいいジャンルがあるというのに何なんですか一体。こんなことでこの先どうするんです。何か考えがあるんですか? よもやそう来るとは思わなんだ。そうさな。ここらあたりで三人目にご登場願おうじゃないか。三人寄れば何とやら。船頭多くして船山に登るとも言いますがね。いやちょっと待て。本当にここには二人しかいないだろうか。読者がいるはずだ。書いている時点ではまだおるまい。しかし我々の背後に気配を感じないか。一年前に産まれるはずだった兄さんなのか。返事がない。それもそうだ君は読者だもの。読者の発言を作中に閉じ込めるほど愚かなことはない。小説の立場が場所や時代によって相対的に変化する異本論の原則に反するからだ。ならば筆者の考えにしても書く必要がないだろうか。それは違う。どうせ書いてみたところで別の意味を探られるに決まっているがその駆け引きが面白いのだ。作者と読者の双方向のコミュニケーションには電話も手紙もメールも要らない。それはカタチだけのものだ。身体の交わりだけでは恋人同士とはいえないのと同じ。関係の有無をあげつらうのは大いなる勘違いなのだ。ところで他にも気配がするぞ。お待たせしました。呼ばれて飛び出てジャジャジャジャジャーン! ってハクション大魔王ですか。そういう脈絡のなさはセンスないですよ。そうかね。この手の流行に左右される固有名詞を出すとスリップストリームやらアヴァンポップやらポストモダーンな感じでいいかと思うのだが。全部違うものですよ。しかもさんざん使い古された手法です。今更オリジナリティなんぞ主張しても詮無きこと。『電車男』のストーリーはまるで岡武士の『世紀末ストリップ』じゃないか。小林恭二の『電話男』は二十年以上前の作品だ。こんなこと誰も考え付くまいと息巻いて仕上げ見事に鏡花賞を受賞した『虚人たち』の重要なくだりと全く同じ試みがマイナーな国の作家によって百年以上前になされていたことを知って唖然としたと筒井康隆だって言っている。そして何より問題なのは編集者も読者も評論家も同業者もそのことを知らなかったのだ。ボルヘスの『バベルの図書館』よろしく世界中には途方もない数の作品がある。そのうえトロイア戦争で焼失した数万冊の書籍なども含めると切りがない。結局どの作品も既存の名作へのオマージュなくして成立しないということだ。今作も例外ではなくドストエフスキーの『地下室の手記』を下地としている。冒頭に四迷を引き合いに出したのはそういう理由からだ。伊藤整文学賞を受賞した高橋源一郎の『日本文学盛衰史』にも記述があったように近代日本文学の夜明けはロシヤ文学によるところが大きいのだ。しかしなぜ二十一世紀の今になってまたそこへ戻るのか。それについては書きながら考えてきたのだが執筆開始十日程の今日になって答えが見つかった。ついさっき購入した「SPA!」二千六年十月二十四日号掲載の「文壇アウトローズの世相放談」によれば今年は日露戦争百一年目にして日露国交回復五十周年だそうだ。奇妙な符号と思えなくもない。そういえば筒井康隆はBunkamuraドゥマゴ文学賞の選考委員を務めたとき多和田葉子の『球形時間』を選んだ。多和田葉子は全ての翻訳は誤訳だと指摘している。すなわち翻訳もオリジナルにならざるを得ないということだ。異なる言語圏双方で作品を発表している氏ならではの発想だろう。うっかり選考委員の名前を出してしまったな。あえて出さないようにしていたが無理が祟って心苦しくなってきた。この際おべんちゃらと思われようともかまやしない。書きたいことを書くのだ。高橋源一郎や太宰治のセンチメンタリズムを真摯に受け止める加藤典洋の文学性は小説と評論の理想的な関係を思わせる。表層的な文章技術が小説の奥底に潜む感性を奪う必要はない。あくまでレトリカルでありながら情緒溢れんばかりの松浦寿輝の現代詩的小説がそれを証明している。堀江敏幸のようにジャンル不明のエッセイ的文章であることは小説の今後を考えるうえですこぶる有効な手段だ。教養主義的との批判もあるだろうか。それがなくなっているのが純文学凋落の原因ではないのか。文学は僕にとって学問である。芸術や娯楽として捉えることもできる。しかしそれはあくまでももっぱら読者にとってのことであり作者にとってはむしろ学問でなければならない。振り分け先のフォルダを決定するのは発信者ではなく受信者なのだ。藤野千夜の性別などどちらでもいい。作家は作品で世間と繋がっているのだ。日常の自分は作家ではなく一市民に過ぎぬ。作家の仕事と市民生活を混同すべきではない。私小説に描かれる作家本人の姿はあくまでも小説用にディフォルメされた建前でしかないという意味で想像上の登場人物と何ら変わりない存在だ。対談やインタビューで晒されるプライヴェートでさえ作家としての一面に集約される。さっき名前の出た桐野夏生は直木賞作家だが河出の松浦理英子×笙野頼子対談本の解説によれば純文学の優れた読み手でもあるらしいぞ。そこで作家の本質は作品の中にあると書いているが本当にそう思う。詩を書いていない時の私は詩人ではないと谷川俊太郎も言っているしフロイトは自らをサンプルとして精神分析を練り上げた。小説家は私小説を書くことで人間を描き出す方法論を導き出す。自分と向き合うことが他者を知る近道なのだ。巧みな文章の使い手しか小説家になれないというのはうがった偏見です。僕だって常日頃から韜晦してばかりではないのです。今さら気付くのも何だが幾らなんでも脈絡がなさ過ぎるな。もう少し文脈を整理せねば。別に酔っ払っているわけでもないのに飲酒運転してしまったかのような奇妙な錯覚に陥りつつあります。これではまるで書いた本人にしか理解できない夢日記のようだ。夢日記の何が悪いというのですか。小説の構想を練ることと白昼夢を見ることは実質的に同じだし夢も小説同様作者の脳力によって検閲される運命なのです。試しに二つほど読んでみましょう。
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