生きた気もせぬ程の飢餓感それゆゑに湧き起こり来たる生の実感

【平成十四年六月十二日の日記】


 生きた気もせぬ程の飢餓感それゆゑに湧き起こり来たる生の実感。二日間珈琲と紅茶と緑茶だけで過ごしながら本を五冊読み四十枚分の原稿を書いた。余りの飢餓感で気が変になりそうだった。飽食の時代に産まれてすっかり忘れ去っていた飢餓感! それはそれで素晴らしいことのようにも思える。一心不乱に労働に身を殉ずる。それもまた一種の真理を得るための修行といえるかもしれない。しかし断食もまた同様に現代の日本人が失ってしまった人類の可能性を見出す手段のひとつかもしれない。そんなことを考えていた。とはいえさすがに飲み物だけで生きながらえるのはもうしんどい。銀行にまだ幾らかの預金が残っていることを思い出し引き出しに行ってみた。ところが残高があるのは普段利用していない銀行の口座だったので、暗証番号が思い出せない。うっすらとした記憶を頼りに三度試してみたが全て間違っていた。三回入力を間違えるとカードは使えなくなってしまうんだね。もう腹が減ってしょうがないので困り果ててすぐさま家に戻りもう読み返すこともなさそうな漫画本十五冊を抱えて近所の古本屋に駆け込んでみた。そこにはいつもの店長の姿はなくて店番をしている初老のおやじさんが対応してくれたのだが店長じゃないと値段が付けられないので明日にしてくれと言われた。明日じゃもう手遅れなんです僕は腹が減ってしょうがないんですお願いですから何とかして頂けませんものでしょうかと懇願してみたところおやじさんははっきりとした買取値はわからないからとりあえず最低の値段でよければ引き取ってあげようと二百四十円で買い上げてくれた。一冊五十円として十五冊なら七百円にはなるだろうと考えていたが甘かった。でも言葉の例えなんかではなく本当に背に腹は替えられぬ状況に追い込まれていた僕はそれでも十分と金を受け取った。どうにかこれで九十九円オンリーストアで食パンとマーマレードジャムが買える。ところが何故か僕はメロンパンを買ってしまった。菓子パン如きがたいした腹の足しになりえぬことは承知していたものの何と粒あんとマーガリンが入っているらしいのだ。粒あんとマーガリンの入ったメロンパン! なんて美味しそうなんだろう。誘惑に耐え切れず僕は税込価格百三円のメロンパンを買ってしまった。残りは百三十七円。実は煙草も買いたかったので十本入り一箱百三十円のショートホープを買うことにした。普段は二十本入り一箱二百七十円のゴールデンバットボックスを愛煙しているがそれすらもままならぬ状況なものでこのような手段を講じることとなった。自販機では二箱セットで売られているショートホープをわざわざ煙草屋で一箱だけ買う客も今時珍しいに違いない。あと二十円あればエコーが買えたのだがそれすらもあたわないのだ。それから一時間経過した今僕はこの文章を書いている。メロンパンはとっくに腹の中に納まってしまっていた。もはや新たなる飢餓感が僕を襲い始めている。それをまぎらすためにショートホープをくゆらしながらこうして文章を綴っている。僕は一体全体何がしたいというのだろう。僕はこれから何処へ向おうとしているのだろう。全然わからない。わかるはずもない。わかっているのは僕がいま腹を空かしていてなおかつ財布の中には七円しか残っていないというこの唯一の現実だけなのだ。もうすでに僕は狂ってしまっているのかもしれない。地位も名声も得ていながらその立場に安住し醜く生きながらえることを良しとしなかった三島由紀夫の生き方に憧れる。だから今ここで何もなさぬままに餓死する道を選ぼうとは思わない。とりあえず身の回りにあるお宝を売りさばいてどうにかやってこうと考えた。ファミコンショップでファミコンソフトを一律百円で買い取ってくれるとの広告を見つけどうにか更に二千円獲得することに成功した。二キロ七百円の米とサッポロ一番数袋カップ酒一杯缶詰数個そして二十本入り百五十円のエコー煙草一箱を購入しそれなりに贅沢な晩酌の時間を過ごす事が出来た。まだ仕事をするために都心に出るための交通費は残っているので早急に社会復帰する方向で努力したい。その前に現在の堕落仕切った状況の中でしか生み出しえぬと思い込んでいる百枚の小説を書き上げることでこの度のろくでなし実験の一旦の成果を見出す考えである。(日記終り)


 喰うに困るほどではないとはいえ今も似たような状況だ。しかもその頃の作品だってひどい有様だったのを覚えているだろう。念のため短いものだけでも晒してくれよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る