原罪とは人類への厳しい戒律であるとともに大いなる福音なのだろう
申し遅れたが吾輩は筆者である。名前は知因子雨読(ちいんし・うどく)に決まっている。筆者なのだから当たり前だ。自分から話をふっておいて勝手な言い草だと憤りを隠せない御仁も少なからずおらりょうか。そんな諸君にご朗報。この小説は一人称で語られがちな戯言の類では多分なく語り手以外の主人公を擁する三人称小説である可能性もあるのだ。まだ油断はできないがいつものように彼は悩んでいた。小説家になりたいと思ったのはいつからだろう。どうして作家になりたいなんて考えたのか。ヌーヴォーロマンよろしく書くことについて書くことにこだわってきたつもりだが思うように書けたためしがない。人生の半分以上このことばかりを繰り返し考えてきた。才能もやる気もない一般的な作家志望者の常として生活レベルも精神年齢も何もかも一切変えられぬままのんべんだらりと取り返しのつかない貴重極まりない青春時代を遣り過ごしてきたのである。北海道の高校を出るなり上京し新聞奨学生をしながら浪人生活を送るまでの間は進学という目標があったから先の心配をすることもなかった。しかし金銭面の都合や宗教上のしがらみから逃れる目的で大学を中退してからというもの歯車が狂ってしまった。正社員候補で入社した会社を研修期間終了とともに三ヶ月で辞めてしまってから仕事は最長一年半を超えることがなく三十三歳を目前とした今も年収が三百万円を超えない。まさに負け組あるいは下流層そのものである。それでもなお我こそは文学の未来を憂う平成の書生なりと気概ばかりは一人前なのだから恐れ入る。たしかに暇さえあればパソコンに向かってはいるもののネットを巡回するばかりで文学どころかブログさえ滅多に更新しない。常日頃から本に目がないという点ではいわゆる活字中毒者といえなくもないが近ごろは週刊誌や漫画の占める割合が多くなってきた。小説や評論となると書店でパラパラとナナメ読みしてはすわ必読なりとてなけなしの金をはたいては買い漁るくせ帰宅するなりいそいそと書棚に並べてみては色とりどりの背表紙をためつすがめつ眺めているばかりでついには積読の山である。過去を振り返ってみれば十代前半に乱歩の少年探偵団や星新一ショートショートに魅せられて以来の二十年それなりに本好き人生を歩んできたことは疑いようもないがしょせんは無学なる故の知識階級への浅はかな憧憬がためのポオズに過ぎず文壇が求めてやまぬ博覧強記の百科全書派文士論客にはほど遠い存在である。こうして無為で虚ろな人生を浪費しているせいか時おり何の脈絡もなく死への恐怖が毒牙をもたげ弱った心を支配しようとする気配を感じることもあるが同時にそれは生への感謝と表裏一体の後ろめたさであることに気付きどうにか正気を取り戻す。原罪とは智慧の実を食べてしまった人類への厳しい戒律であるとともに大いなる福音なのだろうと別にクリスチャンでもないくせに神妙に思う。むしろ家庭の事情から狂信的仏教徒であった過去を持つというのに奇態な限りで斯様の如き超常現象の起源は埴谷雄高の死霊を野放しにした瀬戸内寂聴の由縁に相違あるまいと責任転嫁したくなるが指摘されるまでもなくそれは井上光晴の誤謬である。元よりこんな有様で本当に将来の文学を担うつもりがあるのかと疑問に思うのは筆者だけではあるまい。しかしながら反発を承知の上で言わせて貰うならこれこそが多くの実りなき自称作家志望者のリアルな群像である。どうやら異論があるらしいので主人公の話も聞いてみよう。工藤伸一君どうぞ。はじめまして工藤伸一さん。何だかまるで僕が真面目な文学青年ではないかのようなことを仰いますが僕にとって週刊誌だろうと漫画だろうと昼メロだろうとアダルトビデオだろうと人間社会で表現され消費されるありとあらゆるもの全てが文学なんです。普段から小説なんて読まないと公言してはばからない暴力温泉芸者こと中原昌也が三島由紀夫賞をとる時代に小説の読書量をひけらかしてみても失笑を買うだけです。こないだ通勤災害で欠勤して病院帰りに寄った古書店でやっと入手した講談社刊W村上幻の対談集『ウォーク・ドント・ラン』で知った衝撃的事実を忘れたんですか。二人ともデビューするまで文芸誌なんか殆ど読んだことがないと書かれていたじゃないですか。いやたしかにそうともいえるが筆者にしてみれば詭弁としか受け取れない。彼らは同時代の作家に興味がなかっただけで文芸誌に載らない近代文学や海外小説の良き読者だったではないか。かといって漫画や週刊誌の記事まで文学の範疇に含めてしまっては純文学とエンタテインメントの差異を認識できなくなる。文芸誌が読まれなくなって久しいというが何だかんだ言って我々は読んでいる。文芸誌を読みもしない連中にばかり手柄を奪われるのはもう沢山だと思わないか。しょせん純文学なんてものは金持ちの道楽じゃないですか。奴隷制度に胡坐をかいたギリシャローマのポリス住人たちが暇つぶしに論じてきた哲学講義やら安全な傍観者の立場で諳んじられてきた叙事詩やら農奴の生活を知らぬ平安貴族のたしなみとやらの精神が識字率九割を超える現代日本文学にまで尾をひいているだなんてことはナンセンス極まりないですよ。時代が求めるのは何より大衆文学です。さらに付け加えるならそこに純文学のテイストも含まれた「完全文学」とでも称すべきものでなれば今さら作品を構築してみせる意味がありませんよ。まあ待ちたまえ。そうカッカすることはないだろう。君のもっとも悪いところだ。我々が目指しているのは芸術家であって格闘家ではない。感情論に流されてしまっては元も子もないだろう。たしかに漱石や鷗外は創作以前に人生の成功者だったし東大卒エリートばかりが文学を支えてきた節もあるが時代背景を考えれば当然のことだ。当時のエリートは先立つものが必要であったし識字率も低かった。文学とはそういう土壌から生まれてきたのだから。しかしそれは決して必須事項ではない。プロレタリア運動を引き合いに出すまでもなく四迷を筆頭に藤村芥川太宰三島から現存の新進作家に至るまで文学なしでは生きられなかったと思しき立役者は枚挙に暇がない。今やいわゆる純文学畑の作家よりラノベ作家がむしろ高学歴でさえあるのだから。それにしても主人公にして筆者の工藤伸一なる男は幸か不幸か問われればどちらでもないとしか言いようのないほどにどこをとっても中途半端な存在だと思わないか? 身長一七二センチ体重六二キロと絵に描いたような中肉中背。決してもう若くないかも知れないが老いているわけでもない三十代。デジタル時代に乗り遅れまいとしてIT革命前後にPCを覚えたはいいがアナログ主体の旧き善き文化への憧れも持っている第二次ベビーブーム世代のど真ん中だ。ゴージャスとまではいかなくとも決して喰うに困ることはない真面目なサラリーマンを父に持つ中流家庭で育った。小学校は野球部で中学はサッカー部と生徒会副会長。高校は生徒会長と天文部と演劇部と漫画研究会。体育会系か文科系か判別しかねる部活歴。進学率五割前後の倶知安高校卒。内申平均は三点八で中の上。点がいいのは文系だが理数系に興味がないこともない。大学は四年間通って中退しているから学歴に執着なしとは言い切れず関係なしとも言い切れず。企業によっては履歴書の学歴欄に中退歴を書く必要なんかないとする意見もあるらしいがどういうわけか作家という人種には中退者が多いようだからこれはこれとして何らかの意味があるのだろう。仕事は安定しているのやら不安定なのやらこれまた微妙な派遣社員。いちおう社保完だし給与水準もアルバイトよりは高いけれどクライアント企業様との契約期間はまちまちだし即戦力としてのスキルを要求されるが専門職といえるほど高度なわけではない。休日は気分次第で社交的だったり出不精だったりする。別に遊び人というわけではないが硬派でもない。モテすぎずモテなさすぎず程ほどの青春を謳歌してきた。未婚だが独身貴族というわけでもなく同棲生活は三年目を数える。子供はいないが内縁の妻宅で二匹の猫と暮らしている。ここまで徹底的に平均ど真ん中のバイオリズムの持ち主ならば劣等感も優越感も向上心も怠惰心も含む何もかもが中庸となろうとも不思議ではあるまい。なにしろ自分を中心としてありとあらゆることが自分と重なるようでいて無縁なのだから表現者としてはまさに好都合。ある意味もっとも恵まれた状況に感謝すべきではないかと思うのは筆者だけではあるまい。さて主人公よ如何に。平均値イコール中庸と断定してしまうのは余りに短絡的です。書き手の立場なんてものは受け手次第で相対的に変化する水物でしょう。絶対的中立という発想は空論としか思えません。それぞれの人間が我こそは世界の中心だと身勝手に思い込むぶんにはお互い様でいいんじゃないですか。作品の価値なんてものは衆愚的多数決やら独裁的権力によって一方的に捏造されるものですから独りで考えても時間の無駄です。ただちょっと気がかりな点についてひとつだけ聞いてもいいですか? 三島賞作家の星野智幸が毎日ブログを更新している時代にあえて文学賞に応募する必要があるんですか。ずいぶん前に話題になっていたが最近はあんまり書いてないね。糸井重里みたいに「ほぼ日刊」にすればよかったのに。それはさておき村上龍が『十三歳のハローワーク』で書いていた通り「作家は最後の仕事」だ。小説は作者が歳をとればとるほど良くなるものだということは小島信夫の幽玄さが体現している通り。辻仁成や町田康が音楽からやってきたのも当然の成り行きであろう。そういえば町蔵が最初のバンドINUのファーストアルバム『メシ喰うな』で提示してみせた言語感覚は衝撃的でした。吉本ばななが絶賛したのもわかる。最近「イヌ喰うな!」という名前のアーティストがいるのを知って笑った。話をそらさないで下さい。そもそもどうして「群像」なんです? 欠かさず購入する雑誌といえばビッグコミック系の「スピリッツ」「スペリオール」「ビジネス増刊」辺りと内縁の妻が買ってくる「ホラーМ」「残酷グリム童話」「本当にあった怖い話」といった漫画雑誌やら「SPA!」「アスキー」など週刊誌と一応は文芸誌と言えなくもない「ダ・ヴィンチ」はあれど講談社の雑誌が入っていないでしょう。講談社ノベルスの京極夏彦は全部読んでいるし講談社から結構出されている源ちゃんや春樹の単行本もコンプリートしているぞ。文芸誌なら他にも色々あるでしょう。もしこれが小説への思いを綴った小説論風の小説だと仮定するなら同じ考えで書かれていると思われる保坂和志『小説の誕生』シリーズ連載中の「新潮」や高橋源一郎『ニッポンの小説』連載中の「文學界」や彼らが選考委員の「文藝」に応募すべきでしょう。だからこそあえて「群像」なのだ。二人とも「群像」出身だろう。それに「群像」の唐木厚編集長はミステリ畑の通称文三で知られる文芸図書第三出版部出身というところも面白いじゃないか。舞城王太郎や佐藤友哉が寄稿しているのも彼の尽力によるところが大きいのだろう。短編特集の五十周年記念号には直木賞作家の桐野夏生も登場していた。そういう現状分析もあってこそ「群像」に一縷の望みをかけて縋りたいというのが正直なところだ。しかしキャリアを積んだ小説のベテランたる彼らが小説論風小説を書くのは当然としても単なる作家志望者が真似てどうしようというんです。プロじゃないからこそ意味があるのだ。デビューしてしまったらアマチュア作家の苦悩や憂鬱なんて本気で書けるもんじゃなかろう。プロならそれくらいお手のもんだと思うかもしれぬが読者はもっと利口なのだよ。読者である私が言うのだから間違いない。それに何より記念すべき五十回目だし今となってはせいぜい五十枚しか書けそうにないのだ。だいたい締め切り一ヶ月前から書き始めて天下の群像新人文学賞をとろうなんて魂胆が間違っているじゃないか! 文学賞受賞というのは一人の人間の人生を左右するかもしれない一大イベントだというのに全くけしからんことだ。どんな人気作家であろうと例外なくデビュー作を読めば将来どうなるか目の肥えた編集者には一目瞭然なほど全てのエッセンスが込められているものなんだ。それをこんなろくでもないエッセイだかコラムだか日記だか意図不明でメタファーも感受性のかけらもない駄文の垂れ流しでどうこうしようとは実におこがましいことこのうえない。大手出版社の編集者は学生時代に勉強に勤しんで一流大学を出て就職活動に成功したからエリートなのだ。それを何だ幾ら貧乏だからといって努力もせずに名声を得ようとは。ちゃんと仕事をしなくてはいけないだろう。以前に応募した時もそうだったじゃないか。一次選考にさえ残らなかったのに家賃を滞納してアパートを追い出されたのを忘れたのか。当時の日記を読み返してみろ。
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