「鳥の飛ばない天地の挟間」 32

 見事な模式図が黒板には描かれている。

 クラインの壺の模式図に、関数が描かれた美しい曲線が底面を下にして描かれているグラフ。それらを手できれいに黒板に描き出して、隣りに式を書き足しているのは、藤沢紀志だ。

「さて、多元宇宙論は聞いたことがあるだろう」

前提の確認から始めよう、といって藤沢紀志が黒板にグラフを描き、並べた式などに向き合って、藤堂がうなずく。

 別室に移り、黒板を前に藤沢紀志が解説をすることになったのは。

 酷かった。

篠原守両親の幽霊を連れて来た結果は、藤沢紀志に己を省みさせて初歩の説明から手を抜かずに藤堂に話そう、と決意させるものであり。

藤堂もまた、理系文系には拘らず。

――すまなかった、藤堂。初歩の前提を確認する説明から入ってもいいか?と問われた際に、無言で大きく頷く程であったのだ。

 確かに、幽霊ではあっても、篠原守父の説法は上手かった。

 端からみていても迫力と緩急があり、あの説諭に納得しないでいるのも難しかったろう。ただし、―――。

 それが、篠原守進路問題への説諭に限られることがなければだが。

「…―――」

少しばかり思い出してしまって、藤堂が遠い目になる。

 篠原守に連れてこられた篠原守両親(幽霊)は、部屋に入って我に返るなり、息子に説法を始めたのだから。…

 何を思いだしたのか察したのか、藤沢紀志が頭を下げて謝る。

「すまんな。あれは、…――どうにもあまい処があってな。…予測が甘いというか、当然の処が抜け落ちているというか」

冷たくあきれた目線でいま二人ともに無言で離れてきた部屋の方角をみて、しみじみと藤沢紀志が言葉にする。

「…あれは、幽霊だというのに、両親に対してまだ生きているときのような対応を取り続けていてな。亡くなられたのが、あいつがまだこどもの頃だったから、同情の余地はないではないんだが」

「…―――子供の頃から、ですか」

「そうだ。あれは、ばかでな。…幽霊ということでは、おまえも同じだから、情けをかける。まったくな」

あきれた視線を藤堂にも投げる藤沢に。

「幽霊、…―――おれも、同じようなものだと?」

ためらいながらくちにする藤堂に、うなずく。

「無論だ。おまえは、おまえの世界から来た幽霊といっていい。おまえも確かに向こうの世界では死んでいるはずだ。或いは、死を迎える前に世界ごとこちらへ来たことになるのかもしれないが。…その辺りのことは、ひとならぬ管理官にしかわからないことだろうな」

黒板に描かれた曲線と、位相。そして式を見比べて藤堂が訊ねる。

「ひとつ訊くが、先から時々出て来ている、その「管理官」というのは何ものなんだ?」

「…――ああ、まるでこれこそSFの世界なんだがな」

とん、とかるく黒板を手の甲で叩き、藤沢紀志が考えながらくちにする。

「多次元宇宙が存在する、ということをまず前提とする。此処まではいいな?」

「ああ、わかった」

「尤も、此の世界でもまだ宇宙の総てを現わす式は完成していない。というべきかな、…。いや、ともあれ、いまおまえの前にいるわたしが所属する人類が居住している惑星付近では、まだ文明はそれを表現できる域に達してはいない。だから、明瞭な理論を提供できなくて申し訳ないのだが」

藤沢紀志の常にはっきりとしたものいいからすれば、非情にめずらしく。

ためらいを含みながらも、藤沢紀志が続けていく。

「多次元をいまこの平面にいるヒト――わたしたちが理解しようとしても、認識すらできないという仮説はきいたことがあるだろう」

「二次元の住人からは三次元が、そして、三次元からは四次元が理解できない――みえない、というようなことでいいのかな?」

藤堂も考え込みながら答えるのに、藤沢紀志が頷く。

「まあ、そんなものだ。我々、この辺りの平面に生きているアリからは、上の次元から手を突っ込まれても、反応すらできないというわけだ。…簡単にいえば」

クラインの壺が歪み表から裏に入り込むようにみえる模式図をかるく叩いて、藤沢がいう。

「無数に生まれていく世界がこの瞬間にも存在している。そこまでを前提とすれば」

「…―――」

無言で藤堂がうなずく。

それに、淡々と。

「要は、その無数に生まれ続ける世界を交通整理している存在が管理官だ。今回のおまえのように、他の世界に干渉して、別の世界が滅ぶようなことがないように整理する。もっとも、管理官は全体しかみていない。世界全体――無数の世界全部を管理するのが仕事だから、その目的にそぐわなければ、消されることもある。…要は神様みたいなものだな、あれは」

わたしたち如き、地上を生きる生命体にとればのことだがな、と。

冷めた視線でいうと、ため息を吐く。

「いかん、基礎を跳ばしたな。多重世界はいまこの瞬間も無数に生まれ続けて枝分かれしていっている。…」

かつかつ、と小気味よい音を立てて黒板にチョークで藤沢紀志が図をかいていく。

 AとA‘、枝分かれする線を描いて。

「Aから、このA‘に枝分かれするように、世界は分かれて増え続けている。選択の結果、ひとつ違えただけで、もう別の世界へといっているわけだ。その世界の中にいる限り、ひとは既に選択後の世界しか認識できないが、理論的には別の選択肢を選んだ世界というものも、常に枝分かれした先に存在していることになる」

藤堂がうなずく。

藤沢が黒板にBと書く。

「こちらがおまえの世界としよう。…同じく、BからB’へと」

枝分かれする線の先に、B’と書いて。

その先にまた枝を。その先が、A'とぶつかる。

「B’の選択した先が、A’に干渉した」

藤堂が、藤沢の描く線の先をみつめる。

「さて、この先はどうなる?」

B'から伸びた線は、A'にぶつかっている。

「このままぶつかれば、A'はB’に干渉されたまま、その影響を大きく受けることになる。つまりは、おまえが今回起こしたような騒動だな。…あとでSNSを確認するといいが」

さら、と藤沢が。

「月が落ちてくると、巨大な月が突然空に現れたと、随分と騒ぎになっていてな」

「…―――」

「それは、おまえが引き摺ってきた世界の残滓だ。悪夢をおまえは見続けていて、月が落ちてくる悪夢はおまえの存在とセットになっていた」

「…――セット、に?」

「そうだ。簡単にいうとな。はしょりすぎだと怒られるかもしれないが、そういうことだ。おまえは悪夢をみていた。おまえが起きない限り、夢から醒めない限り、月はこの世界に落ち続ける。最後には、完全に地表に落ちて、わたしたちの世界に対して、回復しようのない衝撃を与えていただろう」

「…―――…それは、…」

どう言葉にすればいいのかと戸惑う藤堂に。

 謝る言葉を口にしかけた藤堂に目線を向けて、あっさりと藤沢がいう。

「実感はないだろう。無理に謝る必要はない。何とか、払うこともできたのだからな」

「…払う、というのは?」

訊ねる藤堂に首を傾げる。

「何といったらいいかな、…―――。わたしの家は、祝詞を唱える神主の家系でな?」

「…そうらしいことをいってたが、…」

篠原守と藤沢紀志が繰り広げていた夫婦漫才もかくやという会話の中に、何処かでその話が出て来た記憶があるとおもいながら藤堂がいうのに。

「まあ、そうだ。処で、祝詞というのは何だとおもう?」

「…―――祝詞、…。おれのいた世界では、…地鎮祭とか、…。そうだな、ロケットを打ち上げる際にも、新式のときはやってたな、…。車とかと同じように」

戸惑いながらいう藤堂に、多少あきれながら藤沢がいう。

「そちらでもあるのか、安全祈願。車の安全祈願など、神社ではよくやるものでな。…さて、だが、神代の昔からある神職と、そこでこうして安全祈願まで行われる際に使われる祝詞だが、――――」

言葉を切り、藤沢紀志が訊ねる。

「では、なぜ祝詞では、神代の昔になかった車や何かの安全祈願ができるとおもう?」

藤堂が完全に意表を突かれたという顔で藤沢紀志を見返す。

「…そ、れは、――考えたことがなかったな」

「だろう。地鎮祭はまだ理屈が通らないでもないが、車の安全祈願など、理論的には無理がすぎる。」

うむ、とひとつ頷いていうのが真面目で。

「だが、祝詞は車の安全祈願を、その発生当初には存在しなかった文明の利器に対する安全祈願を平然と行えてしまう。それは何故か?」

 問う藤沢紀志に、思わずも藤堂が真剣になる。

「…考えたことがなかったな、―――本当に」

藤堂の戸惑いと真摯に考え始めた姿を前に、藤沢紀志が微笑う。

「そうだろうな。大概は、何も考えずに追従する。祝詞が、新しい土地はまだしも、新しい文明が生み出した道具を安全にする祈願などというものを、平然と受入れてその安全を祈願することを疑わない」

「…――習慣だから?」

「それだけでは説明がつかないな。…無論、地鎮祭や何かは、それまで行われていた習俗を踏まえて続けられてきたものになる。だから、習慣というのもあながち間違いではないが」

言葉を切り、どういったものかと藤沢紀志がくびをかしげる。

「…だが、それでは成り立たないと思わないか?祝詞の中に、車という昔はなかったものを平然と受入れる仕組みがなければ、そもそもが詞としてとなえることから無理になる」

微笑む藤沢に、初めて思い当たって藤堂が目を瞠る。

「そうだな、…いわれてみれば」

「だろう」

藤沢が笑み、藤堂をみていう。

「つまりは、祝詞というのは、そのなかに、何でも組み入れることができる仕組みをもっているから、車でも何でも、安全祈願をすることができるんだ」

「組み入れることのできる仕組み?」

「そうだ。…要は、あれは何でもいいのさ。詞が難しく感じるかもしれないが、あれは単に神に届く詞として、単に願を神に奉るだけのことにすぎない。いまの言葉に訳せば、車なら、車の安全をお願いします、といっているだけのことにすぎない」

「…――そうなのか?」

「もちろんだ。単純にお願いしますといっているだけのことだ。だから、中身を入れ替えることができる。安全を祈願する対象が、車でも、ロケットでも、節操はない」

「…――身も蓋もない言い方に聞こえるな」

「ないからな」

あっさり、いいきる藤沢紀志に藤堂があきれてみる。

「神主の家とかじゃないのか?」

「確かにそうだが。要は、―――」

そして、混沌と化している説明の中で、さらに藤堂を戸惑わせる藤沢の一言が放たれていた。

「つまりは、――」

ようやく説法を撒いたのか、篠原守が扉をあけて部屋に来たのはその瞬間。




「祝詞というのは、根性だからな」

身も蓋もない藤沢紀志の言葉に、篠原守が眉を大きく寄せて嘆いてみせる。

「ひどいっ、…ふっちゃん、…!そんな夢も希望もないこといわないでっ、…!」

「事実だからな。仕方ない」

「…――ゆめとろまん、…ゆめとろまん、…」

「それは食えるのか?」

説明がカオスのまま、さらに祝詞の仕組みとかいう話に流れ。

そこに篠原守が現れて。

 混沌がさらに深くなるのに藤堂は天井を仰いでいた。―――






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