「鳥の飛ばない天地の挟間」26
青空が目の前に広がっていた。
「目が醒めたか、藤堂」
薄く微笑み、藤沢紀志がいう。
片膝を藤堂の前に即き、浅く笑み云う端正な美貌は無表情な氷のようだが。
凝然とその藤沢紀志をみあげる藤堂の瞳に、その背景の青空が映っていた。
「…空が、…―――」
「ああ、そうだな?おまえが悪夢から醒めたからには、あの幻の月はもはや存在など出来ないからな」
「…何が、…――いったい、きみは、…―――」
茫然とたずねる藤堂に、地に背をつけて動けずにいる藤堂に藤沢紀志があっさりという。
「わたしか?わたしは藤沢紀志だ。こいつは篠原」
背に立つ、いや、背から心配そうに藤堂と会話する藤沢を覗き込もうとして先から困り切っている篠原守を紹介すると、あっさり告げる。
「ここはわたしたちの住む世界で、おまえの生きていた世界は滅んだ」
「…――ふ、ふっちゃん、…――――!?そういうフォローもなく、突然に衝撃の真実を告げたりしちゃったらですね?お相手のショックというものを少しは学習して、…―――」
「一体何を学習するんだ。そんな面倒はしないぞ。断る」
「…一顧だにせず断らないで、…ふっちゃん、…――」
がくり、と両膝に手を付いて篠原がいうのを振り向きもせず、藤沢紀志が続ける。
美しい声は、青空に吹く風にとても似合いに思えた。
「世界は、…そうだな、おまえの住んでいた世界は総て滅びた。何処までを世界というのかは、その場合にもよるものだろうが。…少なくとも、おまえの知っていた文明の及んでいた範囲の世界は滅んでいる」
藤堂が目を瞠ったままきく前で、藤沢紀志の白い美貌が無表情なままに告げるのは。
「単に、おまえの世界は滅んでもう還らないというだけだ。量子については知っているな?おまえの世界には月に基地を作るだけの文明があり、科学のひとつとして、量子力学は知っているはずだ。おまえは、確か理系だったな?」
「…――どう、して、…――」
「何故知っているかといえば、おまえという情報と接触したからだ。実に面倒な話だが、基礎的な話をしておこう。世界は、常に分岐を繰り返して存在している。その量子的存在が分岐を繰り返すことで無数に存在しているということは、おまえも聞いたことがあるはずだ」
そうだな、と無表情な静けさのままに藤沢が何か考えるようにする。
「有名なのはネコの話だな。違うか?篠原」
「…それは確かにね?こちらの世界では、有名だけど。この人のいた世界でシュレディンガーって存在したの?」
「さあな。ともあれ、こちらの世界ではシュレディンガーのネコの話が有名だ。筺を開けるまで、ネコは生きているのか、死んでいるのかは不明だ。そして、開けなければ、両方の可能性のままに世界は分岐して続いていく」
「…―――つ、づいて、…」
「そうだ。おまえのいた世界は滅びたが、おまえの知っていた世界と殆ど同じ世界は、何処かで継続しているかもしれない。だとしても、いまここに在るおまえは、滅びた世界の欠片として、此処にある」
「…―――」
無言で戸惑ってみあげて言葉も無い藤堂に。
ため息を吐きつつ、藤沢紀志が云う。
「実に面倒な話だが、…――。おまえに理解できるように、いえば、おまえの世界は月が落ちてきたときに滅んだ。おまえの知っていた人間達も、その世界も滅んだことに変わりはない。おまえの世界は滅んだが」
「…ふっちゃん、」
しずかに、痛ましいようにして篠原守がなにかをいいかけてやめるのに。
しずかに、視線を伏せて、白い容貌にあえかな何か言葉にできないなにかを乗せて、ゆっくりと藤沢紀志は藤堂を見た。
―――…藤堂が、息を呑みその藤沢紀志を見返す。
「おまえの世界は滅んだ。数多の世界が他に生き延びていても、量子の世界で無数の枝道が別れ、その他の世界がどれほど似てみえて存在しようと、おまえの居たその世界が滅んでしまったことには変わりはない。世界とは、幾重にも重なり、幾重にも枝分かれして、この瞬間にも無数の異なる選択肢を経て、特に特筆できる意志などがある訳でなく、唯の偶然が生み出す必然によって、枝分かれしたまま他の世界へと変化し続けていくものなのだ。…おまえに、理解できるかどうかはしらないが」
量子の世界は、と。
かなしみを乗せるようにその無表情な眸がみえると思えるのは気のせいか。
あるいは。
「この瞬間にも、世界は無数に枝分かれしていっている。その枝先にある世界のことは、そちらへと行かなかった世界には不明のままだ。意識も、世界を認識する心というものも、あるとしても、常に同じように同一の世界を認識していくことしかできない。唯、それでも世界は無数に枝分かれしていく。幾重にも織られた世界の景色を、おそらく人以外の何ものかであれば、見通すことも可能だろうが」
ふ、と藤沢紀志が笑む。
「わたしは人だ。おまえも、おまえの世界の人にすぎない。であれば、おまえの世界の滅ばなかった結末をすぎた世界が存在しようと。――」
「…――滅ばなかった、…」
「そう、おまえの世界と僅かにも違うと思えない世界は存在するだろう。けれど、その結末をすぎた世界を、おまえは見ることは敵わない。何故なら、おまえはひとだからだ。…阿頼耶識を持つ仏とやらでも、無限を覧る目を持つ神でもなく、唯のひとである以上は」
そっと、いう藤沢紀志の詞が、或る意味やさしく聞こえたのは。
「欠片として、おまえがおまえの滅んだ世界の欠片としてその存在が残ったのは、おまえを残して滅んだ世界が」
気のせいではなかったのだろう。
「おまえを残して滅んだ世界が、―――…。おまえの存在を護ったからだ。」
「…せかい、が?」
驚愕と茫然と、言葉にならない藤堂を冷静に藤沢紀志が見据える。
「おまえの存在は、本来ならおまえの世界とともに滅んだ欠片だ。おまえを残して滅んだ世界が、おまえを守って、…――おまえという欠片を残した。世界の残滓が、その欠片が、おまえという存在を型造っている。おまえの世界は滅ぶときに、――…。おそらく、その犯した間違いに気付いたときに。…」
そっと、藤沢紀志が。
「非情に残酷な希望だとおもうが。おまえを残して滅んだ世界は、おまえという欠片を滅ぶ際に守ることで、或る意味滅びを受入れたのだ」
「―――…なにが、」
藤堂の零れる言葉にならない声にうなずく。
「理解し難いだろうがな。時折ある。迷惑な話だが、思い残したことや、記憶の残滓、或いは、滅びたくない情念といったようなものが。…――」
「…ふっちゃん」
しずかに、藤沢紀志が篠原守を微かに振り向く。
その微笑みの持つしずかな哀しみは。
「世界ともなれば、大人しく滅ぶ世界ばかりではない。気がつく間もなく滅ぶことが出来ていればいいが、―――…藤堂」
「…―――」
無言で見返す藤堂に無表情な視線を向けて。
「…世界ともなれば、滅ぶときに道連れを選ぶことも多い。おまえの世界は、おまえとともに、…―――もう少しで、此の世界をとも連れにして」
驚きに無言で見返す藤堂を感情を見せずに藤沢紀志がみて。
「迷惑な話だが、おまえの悪夢とともに、おまえの滅んだ世界は此方の世界をともに道連れにしようとしていた。だから、わたしは、…―――」
「…ふっちゃん、」
困ったようにいう篠原守を振り向かずに藤沢紀志が云う。
「このばかが止めなければ、わたしは私の世界を守る為に、おまえごと、おまえの滅んだ世界の残滓を滅し、――欠片も残さず滅ぼすつもりでいたのだがな。…このばかが、―――」
薄く嫌そうに眇めた視線を藤沢紀志が背に篠原守に向けて。
いかにも不本意そうにくちにするのを。
茫然と、おどろきながら藤堂がみる。
「…まったくな。他の世界が滅ぶのを、一々同情などしていたら、切りがないぞ?…それをこのばかは同情して、おまえという欠片を滅さずに」
ほとほとあきれたという表情を露わにしながら、藤沢紀志がくちにする。
「世界など、この瞬間にも無数に滅んでいる。だというのに」
「…だって、ふっちゃん、…――可哀想じゃないか、…。それにせっかく、こうして欠片を残すことが出来てたんだから、」
困ったようにいう篠原守を一顧だにせず、あきれを隠さずに藤沢紀志がつづけていう。
「つまりは、このばかはおまえという滅んだ世界が残した欠片を、この世界に迷い込んだだけでなく、放置すればおまえという欠片すら此の世界とともに滅ぼす悪夢を伴ったままだという、実に面倒な状況下に」
ちら、と憤懣やるかたないという視線を、藤沢紀志が篠原守に送る。
「…ごめん、ふっちゃん、――その、…」
藤堂がおどろいて言葉もない前で、藤沢紀志がため息を吐く。
「やり遂げる此方の苦労を考えろというんだ。おまえの我儘をいつも聞いているわけにはいかんのだぞ?…世界は滅びる。ひとがいつかは死ぬようにな。それを、いちいちたすけていては、此方の身が持たない。こういうことは、もうこれきりにしてほしいな」
怒っている藤沢に、篠原が頭を掻いて困ったように笑んでいう。
「だってさ、…――せっかく、滅んだ世界でも、…残したいと思うひとの思いが集まって、凝って、こうしてひとつの命を残したんだからさ、…」
「そういう風にいうと美談風だが、単純に己の愚かさで滅んだ世界が、滅びの間際に往生際わるく、生き延びたいと足掻いた結果として、こいつに絶望を、―――有り得ないほどの孤独と絶望を」
言い掛けて、藤沢紀志が言葉を切る。
「九日か。そんな絶望はしたくないな、―――」
実に嫌そうに言葉にする藤沢紀志に。
「でも、それだって、世界のやさしさだよ。とても、残酷かもしれないけれど、…―――」
「残酷以外の何だという。世界が滅び、同胞のひとりとして残らぬ月に、独りおまえは取り残されたいのか?…世界が滅び、己しか他に生きる命が無い世界で、はたしておまえは、生き延びたいと願うというのか?」
それはこれ以上無い残酷な願いの、―――
世界が滅ぶ際に、残されたひとりは。
喩え、生存が可能であったとして、それはどんな福音で、
―――呪い、だろうか?
世界は滅んで、藤堂は取り残された。
月の隙間にひとり。
わけも解らず、世界が唯滅びるのを目撃する証人として。
生き残ることを願われたとして、…―――。
それはどんな、絶望ののろいなのか。
「藤堂」
「…―――」
無言で見返す藤堂を藤沢紀志がみる。
「どうあっても、結局、おまえは世界の欠片だ。…」
片膝を即き、軽くその膝に手をおいて。
「おまえは、おまえの世界が残した残滓として、これから先を生きていく必要がある。…おまえの世界は、もうおまえとともにしか残ってはいない。」
「―――…。」
無言の藤堂に薄く微笑む。
「…だからな、おまえは、おまえを残した世界の為に、おまえを大事にしなくてはならない。…おまえは、おまえの世界に残されたんだ。」
その微笑みは、かなしみとやさしさを刷くと思える。
「世界の残滓はもうおまえにしかない。…おまえのいた世界が残るのは。もう、おまえという存在しかないのだからな」
穏やかに告げる言葉は、どうしてなのか。
戸惑いながらみかえす藤堂を。
「いい加減、起きたらどうだ?」
「え?…」
藤沢紀志の美しく白い手が差し伸べられていた。
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