1・図書館
館長のボナン
「え、ここ?」
魔の森を臨む辺境の地。ミハエルは大きな3階建ての建物—―図書館を見上げながら、俺にそう問いかけた。
あの後まともに掃除もせず、その日のうちにやってきたのは、俺を拾ってくれた集団が経営する図書館であった。俺はミハエルに、初めての職場体験の場所としてこの図書館を提供しようとしていた。完全なる善意のなせる技である。したがってミハエルは俺に大いなる感謝の念を抱くべきなのだが、今のところ感謝のKの字も見えない。
その図書館は立方体が三つ並んだようなモダンな外観で、庭には低木がちょうどよく遍在している。入り口側の壁は一面ガラスが張られているが、閉店後だからか全てカーテンで覆われ、中の様子をうかがい知る事はできない。真っ赤な夕日が、タイル壁の数多のひび割れやガラスのくすみを浮かび上がらせていた。
「図書館を個人で運営できるくらいのお金持ちって聞いていたけれど……想像以上に古びた建物だね。僕の瀟洒な服が汚れてしまうかもしれない。ところでこのコート気に入っているんだ、どう思う?」
「くたばれ」
正面入口に続く石畳をこつこつ歩きながら、俺は流れるように中指を立てた。失礼には更なる失礼で返すのが礼儀だと知っているので、躊躇いも罪悪感も全くない。
このクラシックな図書館は俺にとって自宅であり、何よりも大切な居場所だ。
大分年月の染み付いた見かけであることは否定しないし、実際老朽化ジョークは職員の間でもかなりウケるのだが、自分たちで言うのと他人が半笑いで言うのでは話が異なる。大分異なる。これでも俺は毎日手入れに励んでいるのだし。
正面入り口に到達すると、ミハエルはいかにも重そうな荘厳なつくりの玄関扉に手をかけ、押し開けようと力を込めた。
バァン!
「うわっ!」
扉はミハエルの予想よりはるかにスムーズに開いた。壁と扉とが勢いよく打ち合わされ、西日が満ちてしんとした高天井のエントランスに轟音が響き渡る。ミハエルは情けなくよろけながら、横目で素知らぬ顔をしている案内人を睨んだが、当の俺は無反応を貫いた。この扉が風に押されそうなほど軽い手応えであることなど当然知っていたけれど、なんだか教える気になれなかったのだ。
そこで奥のカウンターから人間が二人、揃って顔をあげた。
「おうイマイ、帰ったか。おかえり」
「ボナン! ケイド! ただいま」
館長のボナンと、受付のケイドだ。どうやら新入りの本たちの整理をしていたらしく、閉館後だというのに黒いエプロンを身に着けている。ボナンはすぐに手を止めて、カウンター内から抜け出てきた。ケイドは一瞥を寄越したのみでまるで手を止めない。俺は早足で二人に歩み寄ろうとした、けれど。
「……なんだお前」
「いや、ちょっと」
「離せよ……きめぇな」
勇者がイマイのパーカーの袖を引いていた。
イマイはその事実に気付いた途端、首の根元辺りがゾワリとした。いい大人が、成人男性が、ぶりっ子仕草をするな。
ミハエルは静かに俺を見、ボナンを見、そして俺を見た。その目がありありと仰天を示している。なんなんだこいつ、失礼な。
しかしボナンはそんな挙動不審な見ず知らずの男にも優しく笑いかけ、そのまま俺に目線を滑らせた。
「イマイ、そちらの方は?」
「ああ、こいつは……」
「ごめん、ちょっとタイム」
そう言ってミハエルは数歩後ずさり、ボナンたちに背を向けるので、俺もまごつきながら倣った。ミハエルは軽く屈み込んで口に片手を添えた。
「少年誌?」
「は?」
「あの人も、あの人も、少年誌でしか見ない筋肉をしているんだけど、何?」
俺は背後をそろと振り返った。眉を下げて苦笑したボナンと目が合う。
筋肉。確かに、ボナンの筋肉も、ケイドの筋肉も凄い。彼ら以上のガタイを持つ人間を俺は知らない。……でも、ただそれだけだ。人外じみた筋肉の付き方をしているというわけではないし、鍛え上げられた逆三角の身体付きは美しい。
俺はミハエルに向き直った。
「筋肉があることの何が問題なんだよ」
するとミハエルは、
「君は麻痺しているみたいだから僕が言うけど、図書館職員の胸筋があんなに発達しているのはおかしいよ! 正直エプロンが似合っていないし、どこの闘技場かと思った!」と小声で叫んだ。
俺は恐れおののいた。この男、知ってはいたが失礼すぎる。
「いいかい、体が大きいとね、怖いんだよ。僕程度の大きさでも女性や子供には怖がられるんだ。一般的に考えて、戦場以外に存在する大男に対して、人は困惑と恐怖を覚えるよ」
「なんでだよ。お前だって大男のくせに、大男が怖いのかよ」
「怖いよ! よく考えてくれ、僕はこの2,3年ろくな大人と喋っていない。そうだな、例えば君が田舎のロケのリポーターだったとして、第一村人が理性あるゴリマッチョだったら? 怖いだろう?」
「お前の第一村人はピノさんだったろ」
「ピノはマッチョじゃないし、理性の欠けたろくでもない大人だからいいんだよ」
そんな応酬をしていると、ミハエルの肩に分厚い大きな手のひらが置かれた。それはミハエルの肩よりも少し高い位置から伸びている。ボナンの手だった。
「ええと……、もしかして、あなたが『勇者ミハエル』か?」
「えっあ、はい」
「そうか、あなたが。はじめまして。館長のボナンだ」
そう言ってボナンは鋭い目尻にくしゃりと皺を寄せ、ミハエルに握手を求めた。ミハエルは平然を装ってそれに応じたが、態度はあからさまに小さくなっている。
俺は人知れず瞠目した。なるほど、隣に並ぶとよく分かるが、ミハエルはボナンよりふた周りほど体が小さい。ミハエルだって大柄な男なのだから、もしかすると本当に、ボナンのサイズは一般常識的な範囲からかけ離れているのかもしれなかった。
まあ今はそんなことどうでもいい。俺は親指でびしりと隣のミハエルを指した。
「ボナン、こいつ今ニートなんだ。だから職業体験をさせてやりたくて」
「イマイ?」
ミハエルは俺を二度見した。
「少しは言葉を選んでくれないかな」
「こいつを明日から何日か、ここで働かせる。いいだろ? 俺ちゃんと世話するし、悪さしないか見張るし」
「何か勘違いしてるみたいだけど僕は犬じゃないよ」
「仕事も俺が教えるから、な、お願い」
ボナンは咀嚼するように何度か頷いた。
「勿論いいぞ」
「勿論いいんだ」
「ありがとうボナン」
「ちょっと待っててくれ、ミハエルさんに予備のエプロンを貸そう」
「えっあっすみませんお気遣いなく」
ミハエルは困惑を隠さずおろおろしていた。俺は勇者の取ってつけたような敬語に苛立ちを覚える。
ボナンはゴソゴソとカウンター下の空間を漁ったかと思うと、厚手のシンプルな黒エプロン—―想像以上にサイズが大きい—―を出した。ミハエルは顔の引き攣るのをどうにか押し込め受け取った。それからミハエルは俺とボナンをまた交互に見やる。
「……なるほどね、つまりイマイはどうしても僕と働きたい、と」
「そこは『僕のためにわざわざありがとうございます』だろ。お前の礼儀は野良犬以下か?」
「僕のためにわざわざありがとうございます」
「それをボナンに言えよアホバカ犬」
「口悪いとかもうそういうレベルじゃなくない? 失礼だよ君」
文句を言いつつ、仕方がないのでミハエルはボナンに向き直る。
「改めて、お世話になりますミハエルです。不束者ですがよろしくお願いします」
ボナンはまたにこやかに頷くと、入ったときからずっと閉まっていた奥の扉をに手をかけた。
「ああ、歓迎するぜミハエルさん。ようこそヘリット図書館へ」
ミハエルは開いた扉の向こうを何気なく見て—―目を輝かせた。
その部屋には運動場ほどの広さと、建物3階分の高さがあった。大量の本棚が美しく配置され、あらゆる壁が本で埋まり、両脇には木の螺旋階段がそびえ立つ。大きくアーチを描いた窓から差し込んだオレンジ色が、部屋の陰影を幻想的に演出している。
目を見張るべきはその蔵書の数である。どこを見ても本、本、本。あり得ない量の古書たちが、こだわりを持って並べられていた。一応2階や3階に相当する通路はあるが、あくまで通路であり、これ程の本が一つの空間に収まった様は壮観だった。
俺はあんぐりと口を開けたミハエルを横目で捕らえると、ほんの少しだけ得意になって口角を上げた。
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