ニートで何が悪い

 俺は扉を開き、脳内でミハエルの向かいそうな部屋—―あの男が屋外に出る訳が無い—―を思い起こしながら、後ろ手に扉を閉めた。

 すると瞬きの間、左隣から強い力で引きつけられ、そのまま廊下の奥へと連れて行かれた。少し経てばリビングから遠く離れたキッチンで解放される。そこにはミハエルがいた。


「おいミハエル」

「君だけは僕の味方だと思っていたのに!」

「は?」


 ミハエルはきれいな垂れ目の眦をこれでもかと吊り上げ、苛立ちを露わにしていた。加えて焦りもあるらしく、薄茶色の癖毛を両手でぐちゃぐちゃに弄んでいる。

「君は! なんで僕の家の在り処を……よりにもよってあの超優秀な後輩にバラしたんだ! この術は一度場所が割れたらもう誤魔化しが効かないんだ! なんで、なぜ、僕は放っておいてほしいのに!」

「ごちゃごちゃうるせぇ! よくわからんが多分お前がニートなのが悪い」

「ニートとか言うな! 君たちは僕の親戚なのか!? 僕は今でも多額の税金を払っているし、生きているし、誰に迷惑をかけている訳でもない!」


 勇者は八つ当たりのようにぎゃあぎゃあ言い募った。恐ろしいことに、この男はここまでしておいて、俺に迷惑をかけている自覚がないらしい。普段俺がどれだけハウスキープしてやっていると思っているんだ。


「俺に言うな! 面と向かってあの人に言え」

「言えないさ! だって僕の話なんて彼らは聞かないし!」

「そうだとしても、言えよ! 他人には言わなきゃ伝わんねぇんだぞ。あとほんとにうるせぇから、そのエネルギーは別の有意義なことに使え!」

「でも」

「でもじゃねぇだろ! 今のお前、いろいろ理由つけて現実から逃げてるようにしか見えねぇ。生きてる限り現実からは離れらんねぇんだぞ。本当の理由が言えないんなら、嘘でもなんでもでっち上げろ。お前ニートだし騙すのに罪悪感とか無いタイプだろ」

「えっニートの偏見えぐいね?」

「お前への偏見だよ」

 ミハエルは閉口し、力なく俯いた。

「……でもあの人たち、僕の建前を信じようともしないんだ……。ちょっと学生時代、ヤンチャだったってだけなのに……」

 よく見れば、目には涙の膜が張っている。


「……」

 今度は俺が閉口する番だった。

 参ってしまった。大の大人が惨めに、まるで萎びた水菜のように振る舞っている様子を見るのは精神的にきつい。誰かに助けを求めたいけれど、このキッチンには結局俺と水菜しかいなかった。


 俺は眉間にきつく皺を寄せてから、手を数度打ち合わせた。

「……じゃああの人には帰ってもらう」

 それを聞くとミハエルは顔を上げ、湿った緑色の目を顕にした。急に光が当たったので、俺の視点ではミハエルの瞳が輝き始めたように見えた。

「イマイ……!」

「でも少しくらいは話した方がいいぜ。もうお前がここにいるってことはバレてる。それにあの人、なんかお菓子持ってきてくれてたし」

 口頭じゃ言いにくいんだったら、手紙でもなんでも俺が渡してやるけど。

 俺が気を遣ってそう言うと、哀れな勇者は浅く頷いた。

「そうだね……じゃあ、塩かな……」

「しお」

 しかし、ミハエルはつくづくギャグみたいな男なので、ここで順当に奇行に走った。戸棚から塩の袋を取り出し、力任せに破き開ける。少しとは口が裂けてもいえない量の粗塩がキッチンのフローリングを白く汚した。

「ではイマイ、塩を撒く練習をしようか」

 撒く。塩を、撒く。床に?

 俺は困惑して、しかしミハエルの圧に負け、床に零れた塩を少量掬って放るようにした。当然それらは前方に落ち、ささやかなパターンを形作った。

「ぜんぜん駄目だね」

 ミハエルは腕を組んでため息を吐いた。先ほどまでしなびていたくせに、すっかり態度が回復している。

「そんなスープの味付けにひとつまみ、みたいな量じゃないよ。パラパラじゃなくて、バサァッ! ザラザラー! ってもう山ほど、死ぬほど投げるんだ」

「投げるって、まさかピノさんに?」

「そんなの当たり前だろう。塩には魔除けの効果があるんだよ」

 俺は小声で「イカレてやがる」と呟いた。

 ミハエルはやれやれとでも言うように、上部が大きく破けた塩袋をゆっくり持ち上げた。


 その時、ピノさんがこの混沌としたキッチンにひょっこり姿を現した。現してしまった。待ち時間の長さに耐えかねたのだろう。黒目がちな目をくるりと動かして、ただ事ではない様子を認知したらしい。

「イマイさん、ミハエルさん、これは—―」

 そうしてミハエルは恐ろしいことに、残りの塩の全てをピノさんの頭上でひっくり返したのである。


「……」

 ピノさんの柔らかそうな髪の間から、塩のごく小さなひとかけらが、水のように落ちた。

「……」

「……」

 俺は石膏像のように固まって、何も言えなかった。白色にまみれたピノさんと元凶のミハエルはしばらく何もアクションを起こさないまま、どちらも心なしか虚ろな目で静止していた。

 周囲は長い沈黙に支配された。


 どれほどの時間が経ったのだろう。ピノさんはおもむろに体を傾けて、頭上の塩を無造作に床に落とした。軽く手で払い、指先に付着した結晶をぺろりと舐め取り、微笑んだ。


「ミハエルさん。逃げるなら今ですよ」


 

 そこからはとにかく子供のような掴み合いと追いかけっこが始まった。勿論ミハエルは逃げる方で、ピノさんは追いかける方である。夏のトンボよろしく家中—―ミハエルは意地でも外に出ない—―を動き回り、その速さや俊敏さといえば、怒涛と言う他なかった。素人の俺には何が起こっているのかよく分からなかったので、詳細は割愛せざるを得ないが、ピノさんがミハエルに対して「そういう所だけは昔から全然変わらないんですね」と叫んでいたのがとにかく恐ろしかった。少しは変わっていてほしかった。

 俺は激しく動き回る影たちから距離を取り、キッチンで息を潜めていた。

 どちらもプロなので、あれだけ走っているのに、物が倒れたり壊れたりする音が全く聞こえてこない。家の物理的被害、もとい俺の後始末の必要な事象はないようでひとまず安心した。

 しかし。


「ちょっとピノ! 誰が掃除すると思っているんだよ!」


 そんなミハエルの荒い声に、不意に目が覚める心地がした。もつれる足で廊下に出ると、足裏に砂っぽい感触がある。塩だ。少し考えればわかる、ちょっと払ったくらいで、意外とベタつく塩のすべてが落ちるわけはないのだ。

 二階に上がり、ピノさんに付着していたであろう粒子が物の多い部屋に満遍なくばら撒かれた惨状を見、目眩がした。


「イカれてやがる!」


 掃除をするのは俺である。





 この戦いは結果として、ピノさんが勝ち、ミハエルが負けた。掃除機を持ち出すために戻ったリビングで、ピノさんがミハエルを脇固めしていたので、素人の俺にもこの勝負の結末が理解できた。よっぽど疲れたのだろう。俺がどうにかその場を落ち着けようとしても、ミハエルは黙って固められ続けていた。

 ピノさんも大分頭の不思議な人であるということが分かった。普通の倫理を解する人間は、その場のノリで暴れたりしない。

 そんなピノさんは、いきなりの加害にかなり不快感を示していたはずだが、再度ソファに座らされお茶を出された今は、何事もなかったかのような澄まし顔をしている。怖い。

 ミハエルはソファの向かいの大きなクッション(横に並んで話すのは厳しいだろうと、俺が用意した)に腰掛けながら、運動不足が祟り攣ったらしい右足を伸ばしたまま無謀にも足を組もうとし、うまくいかずに諦めていた。かわりに左肘と左膝を寄せて頬杖をつく。


「じゃあ訊くけど、ニートの何が悪いんだい?」


 おお、と俺は男の横顔をしげしげと眺めた。先ほどと打って変わって堂々としている。久しぶりの運動が精神にいい影響を及ぼしたのかもしれないな、と失礼なことを考えた。

「僕は元来武力行使を好まないたちだ。そのことに気がつくのにこんなにも長い時間を掛けてしまった。今更勇者なんて血なまぐさい肩書は背負わないよ」

 ピノさんはそんなミハエルを初春の風のように冷たい視線で黙殺した。目は死んでいるが、その他の印象だけは柔らかいところがミソである。

「ニートがほざかないでください。いいですか、ミハエルさん。あなたには振る舞いを改めていただかなければいけません。今のあなたのようなロクデナシでも勇者になれるのだと思われては困るのです。何のために丸3日の勇者試験のうち、面接に多大な時間をかけていると思いますか?」

 俺は二人からほんの少し目線を逸らした。確かに、ミハエルと過ごしていて、このような人間でも勇者なのかと興味深く思ったことが何度かあった。勇者という称号を侮ったつもりはないが、まあ、親しみを覚えたのは事実だ。

「今更そんなことを言うのかい? 思い出してくれよ、ピノ。僕は昔からこういう性格だっただろう」

「性格のことは何も言っていません。せっかく能力はあるのですから、引きこもりという勇者にあるまじき行いを即刻やめて、前のように精力的に働けと言っているのです」

「それならさっき、僕に掴みかかったピノの行動も勇者にあるまじきものじゃないのかい? 結構痛かったよ」

 ピノさんはミハエルを丁寧に無視した。

「ミハエルさん、私たちの願いはひとつです。ちゃんと働いてください。もし、それがなされないのであれば……」

「あれば?」


「勇者ライセンスを没収します」


 俺とミハエルの表情は非常に対照的だった。まさに天国と地獄。俺はさあと血の気が引き、ミハエルはほっと胸を撫で下ろした。

「あっそんなことでいいの? よかった、僕は一向に構わないよ。さあ剥奪してくれ」

「え、なっ、ハァ!? 構うわクソボケ!」

 俺はミハエルの呑気な言葉に戦慄した。こいつ、勇者のくせに、勇者ライセンスのありがたみを分かっていないのか。ミハエルのことだから本当に分かっていないだけなような気もするが、いくらなんでも許せない。単車免許じゃないのだから。

「ミハエルさん、私たちはそのような事態をなるべく望んでおりません。勇者という名誉な称号を放棄した例などありませんし」

「大丈夫さ! 前例作っていこうよ!」

 ピノさんはまたやんわりとしかし確実にシカトした。

「とにかくミハエルさんには働いて貰います。職業体験からでも構いませんので、ひとまず昔みたいな真人間にはなってください」

「そうだそうだ!」

「ええっ嫌だ! 働きたくない! 本当に! 心から!」

「おまっ、ジタバタするな! 駄々をこねるな! 幾つだお前!」

 流れるように言い合いを始める二人を横目でちらと見ながら、ピノさんは呆れたように言った。

「ちなみに、一年以内に社会的能力を取り戻せなくても没収ですからね」

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