序・勇者の家

ニートとの邂逅

 しかしその男はこう言った。


「そんなこと言ったかな?」


 そうして男――勇者ミハエルはベッドと見紛うほど広いソファに腰掛けながら、左手で団扇を扇いだ。俺は天を仰いだ。くすんだ天窓から注ぐささやかな陽の光が、なぜか無性に目に染みた。



 とある人間に生命を救われてから早3年。


 この日俺は、その“とある人間”と相見えるため、小さな一軒家を訪れていた。

 川のせせらぎと緑のざわめきに彩られた、風光明媚な街。優美かつ温もり溢れる高級住宅街の一角に、彼の自宅がある、はずなのだけれど。


「……は?」


 俺は地図と建物を何度も見比べ、首を60度横に捻り、サングラスを外してから瞼を手のひらでごしりと擦った。来た道を戻って曲がり角から出会いをやり直してみたりもした。……しかし現実は変わらず、ただ目の周辺がちょっとヒリヒリするようになっただけであった。


 その家を端的に言い表すと、空き家。それに尽きた。見かけは新築のようではあるものの、窓やカーテンの一切が閉めきられ、玄関ポーチには枯れ葉と綿埃が溜まり、くすんだポストが何時のものかも分からないチラシを咥えている。

 荒れ放題の庭を視界の端に収めながら、俺は養い主の情報を僅かに疑った。いや、誠実かつ有能な彼が誤情報を掴ませるはずがないのだけれど、どう見たってこれは空き家だ。


 落ち込んだ。完全に正確な情報などこの世に無いと分かってはいるが、それはそれ、これはこれ。期待の分だけ落胆が大きいことは自明である。この住所だって、手に入れるのになかなかの時間がかかったのだ。


 俺は一縷の望みに縋って、クモの巣の張った呼び鈴を押してみた。この空き家に勇者が住んでいることを(あまり想像したくはないが)願ったのである。呼び鈴の押しボタンは一般のものと比べてはるかに抵抗が軽く、というか抵抗が無く、どれだけ圧しても鳴らなかった。よく見れば機器の側面に大穴が空いている。壊し方が大胆だ。

 しかしドアノブに手を掛け回してみると、僅かな金属の擦音がして、暗い室内が隙間から見えた。玄関扉には鍵がかかっていなかったらしい。

 しばし葛藤したが、結局土足での一歩を踏み入れた。


 室内は肌寒く、それでいて生温かった。不気味にギラついた装飾が壁じゅうを埋め尽くし、ホラー小説で描かれるような重苦しい空気が沈殿している。フローリングに積もった埃たちを踏みつけ、通路を圧迫する黒いゴミ袋たちを避けながら、奥へと進む。

 廊下を抜けるとリビングらしき部屋があった。おびただしい量の段ボールやら家具やらが散らばり、積み立てられ、窓の光がほとんど遮断されている。俺は夜目が効くので問題ないが、普通の人間なら、この暗がりでは動くことさえ躊躇うだろう。

 部屋のあまりの汚さに顔を顰め、この場を立ち去ろうとして。


「誰?」


 声がした。

 俺の背後、その雑に積み上げられた数多の荷物からだった。ぎ、ぎ、ぎとぎこちなく首を回した目の前、布団の海には。

 トド—―もとい勇者ミハエルが沈み込んでいた。



 男の寝起きは異様に良かった。手の一振りで電気を点け、部屋の隅に転がっていたペットボトルを謎の念動力で浮かせて飲んだ。


 俺は目の前の男と、かつての資料で見た端正な『勇者ミハエル』とを隈無く重ね比べた。資料で見た通りの派手な顔立ちだ。茶髪には癖があり、引き締まった体をしていて、特徴的な垂れ目もそのまま緑色だった。年だって間違いなく20代だろう。

 しかし、写真と比べて圧倒的に清潔感がない。無精ひげを生やし、ところどころ染みの付いた上下不揃いのジャージを着ている。切りそろえられていたはずの毛髪は好き放題に伸びて乱れて、後ろで雑に括られている。



 俺は頭を抱えた。この男が命の恩人、勇者ミハエルなのか。多分。きっと。あんまり信じたくないけれど。



 悶える俺を他所に、ミハエルは這いずるように数歩歩き、布団の直ぐ側にある大きすぎるソファに腰掛け、団扇を手に取り扇いだ。そして悠々と足を組み替え大きく伸びをした。


「君、誰? というか何者? おかしいな。僕はこの家に特別な魔法をかけてるから、人間は意識できないはずなんだけど」


 ねぇクリスピーカナリア、と彼は床に直接置かれている際立って派手な鳩時計に話しかけた。埃を被っていないところを見るに、これは魔法に必要なアイテム兼ペットなのだろうか。全く寂しい男である。

 もっとマトモな生活をしろ! と、内なるお節介心が叫び始めるのを気合で抑え込み、俺は冷静を装って呟いた。

「……忘れたのかよ。俺は弟子にされにきたんだぞ」

「弟子? 誰に?」

「お前に!」

「僕に?」

「お前が俺のこと弟子にするって言ったんだろ!」

「僕が君のこと弟子にするって言ったの?」


 ミハエルは呑気に首を傾け、目を瞬かせた。引きこもり特有の生白い人さし指が二人の間をふらふらと彷徨う。


 ここで例の台詞である。


「そんなこと言ったかな?」


 激怒した。二つの拳がぶるぶる震え、頭の奥がどくりどくり脈打つのがはっきりと分かった。しかしあまり親しくない相手を殴ることなどできず、仕方なく拳を床を叩きつけた。舞い上がった埃に噎せる。

 ミハエルはそれを嘲るように軽く口角を上げ、ソファに寝そべると、気だるげに欠伸をした。このソファが定位置らしいが、もしかして毎日布団とソファの往復ばかりをしているのだろうか。


「うんうん、君の元気の良さはよぉく分かったよ」

「……お前、ほんとに覚えてないんだな」

「記憶の欠片もないね。じゃ、さよなら」


 そう言って勇者はひらひらと手を振った。ムカつくことこの上無い。




 ということで俺は、自分の特異な出自から突然の火災、そして素晴らしき勇者の救助まで。懇切丁寧に説明してやった。

 あんまり長いのでミハエルは途中から聞くことを諦めたが、俺はしっかり最後まで話しきった。


「—―と、いうことだ分かったかボンクラ」

 理路整然と説明することができて喜ばしく、胸を張った。ミハエルは話が終わったのを察して、おもむろに身体を起こした。

「ええと、つまり、君は人間じゃないんだね?」

 俺は静かに首肯しながら、サングラスを外して、ミハエルの眼前に人ならざる真紅の瞳を晒した。ミハエルは興味深そうに顔を覗き込み、切り傷のような瞳孔を認知した途端、うぅわ、と呻き声を上げてのけぞった。


「怖! 何!? 君、魔族?」

「話聞いてたか? 魔族な訳ないだろ失礼だぞお前。俺は鮫人間だ」

「はぁ、なにそれ?」



 今更ながら、イマイは鮫人間である。

『鮫人間』とはその名の通り、鮫の要素と人間の要素を併せ持った人工生物だ。

 一口に『鮫』と言っても、魔力を持たない普通の鮫ではない。この世で10の指に入るほど強い魔物であるといわれる、『ドォイマイラナ鮫』だ。俺はヒトとドォイマイラナ鮫の混種だった。ちなみに、この事実だけでありとあらゆる法に引っかかっているので、生成した研究所や職員は例の火災時に纏めて処分された。ざまあみろ。

 よって俺は人にはあり得ない体力、腕力、顎力を持っていた。そもそも人型兵器として生み出されたので、この高能力は妥当と言う他無い。

 しかし、人間社会に溶け込めるような容姿は当然ながら持ち合わせていなかった。だから今日のイマイの人間らしいシルエットは全て、研究所の開発した『擬態薬』に依るものだ。その液体を一日に一度摂取することで、俺の下半身は二本足へと変貌し、ヒレが皮膚下に吸収され、血塗られたような赤黒い肌は褐色と呼べる程に落ち着く。

 ただ、白い毛髪と発光する真っ赤な眼だけはどうにも誤魔化しようがない。結果俺の風貌は、白髪かつ褐色肌、大きなサングラス付きという少々珍しいものになった。


 とはいえ見た目が変わっても、世間知らずな内面が変わる訳もなく。人間という生き物の性質や、社会制度、倫理、文化、一般常識、コミュニケーションの取り方、家事の仕方、道徳心など数多を俺は学んだ。人間として社会を生きるために、とにかく学んだ。そしてつい最近、嫌がらせのように難易度の高い試験をパスし、やっと戸籍を得ることができたのだ。

 3年だ。ここまで3年かかった。

 これらの努力の根幹に、あの日の言葉—―自分があの人間の「弟子」になれるかもしれないという期待があったことは否定できない。それなのに、それなのに……。


 俺は衝動のままにミハエルの肩をぐらぐら揺すぶった。ミハエルは体幹がしっかりしているので、ゴムベラがしなるように美しく揺れる。

「なんで働いてすらないんだよ!」

「ええ? 確かに働いていないのは事実だけど、そんなのどうだっていいじゃないか!」

「よくねぇよ! 働けよ! そんなんじゃただのニートだろ!」



ニート:仕事をしていない、また求職活動をしていない15〜34歳ののうち、主に通学でも家事でもない独身者。



 途端に勇者は顔色を変えた。

「にッ、ニートとか言うな! 悪口だぞ! 一度だって働いたこともなさそうなチンピラ崩れのガキが!」

「うるせえニートは悪口じゃねえ、ただの事実だ! あと俺は働いているし、相手はガキで自分は大人だと認識してるんだったら売り言葉に買い言葉で労働を強制しようとすんな、安易に容姿に言及すんな、ムキになるな! んなこともわかんねえとかお前バカか!?」

「初対面でこんなに言い返されることある?」

「だから初対面じゃねえんだって〜!」


 勇者ミハエルが冒険者ギルドを脱退したことは資料にも載っていて、知っていたが、こんなにあからさまに職に就いていないことなど知らなかった。何か凄い個人研究とかしてるのかと思っていた。駄目だ。心の底から憧れた恩人がこんな元気な引きニートだった事実を認めたくない!



 するとミハエルは、しばらく考え込んだ後、それらを埋め立てるように素っ頓狂な声を出した。

「……あっ思い出した急に思い出した! そういえば、よく分からない気色悪めの生き物相手に何やかんやした、そういうこともあったような気がするようなしないようなするような気がしてきたよ」

「えっ本当か! じゃあ」

「でも君を弟子にはしない」


 ぴしゃりと言い切った。そしてミハエルは立ち上がり、軽く身を屈ませ、俺と目線を揃えて、今までとは打って変わり真剣な瞳で見つめた。綺麗な緑色だった。昼の木の葉のようにも、浅い水底の光のようにも見える。

 

「いいかい、君は勘違いをしているんだ」

「勘違い」

「そう、勘違い」

 ミハエルはそう言って、己の両手で俺の両手を包み、世にも恐ろしい紅の瞳を覗き込みながら微笑んだ。


「僕は勇者だけど神じゃない。救われる準備がある奴しか救わないし救えないよ。君が救われたと言うのなら、それは殆ど君の意思と努力に依るものだ」

「……っそ? そうか」

「うん。君も頑張ったんだね。偉いよ。君には自分の道を自分で切り開けるだけの力が備わっている。輝かしい未来と共に。だから僕のことは気にせず、ね?」

「そうか……」


 俺はぎこちなく頷いた。

 そして勇者の笑みの含みに最後まで気づかず、帰った。勿論見送りはなかった。

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