勇者が仕事しない

はじまり・三年前

「ここにいるのは君だけかな」


 火柱を背後に、一人の人間が俺に声をかけた。


 知らない男だ。体格がいい。肩幅と筋肉がある。声が低いので密室の黒煙の中でもよく響くし、ここまで辿り着ける程の肺活量もあるらしい。


 しかしこちらから認識できるのはその影のみで、肝心の顔はまるで見えなかった。室内に充満する煙に加え、迫りくる炎のせいで何もかもが逆光になっている。

 俺――人造の鮫人間は、その揺らめくシルエットをぼんやりと見つめながら、最後の力を振り絞って尾を動かし、ゆっくりと後退した。その弾みに激しく咳き込んでしまうと、濁りきった空気が素早く肺にまとわりついた。俺は自身の臓器を掻き抱くようにその場に丸まった。心臓がけたたましく暴れ狂い、もはや自身の呼吸音すら聞こえない。


 研究所の崩壊自体は予想していた。こんなクソみたいな場所、遅かれ早かれこうなる運命だったのだ。ここでどれだけの命が生まれ、消えていったか。生まれることさえ許されないまま失われていったか! 思い出すだけでむしゃくしゃして悔しくて泣きたくなる!


 この火事だって、おそらく非人道実験に耐え兼ねた研究所の誰かが火を放ったのだろう。もしかすると冷却器が誤作動を起こしたのかもしれないし、特殊培養ポッドが遂に爆発したのかもしれないが、何にせよ、あの培養液やら実験やらから解放されたのはラッキーだった。

 たとえそれが、この最期の数十分間だけだとしても。


 男は一気に距離を詰め、俺の目の前へ躍り出た。俺はとっさに身構えたが、今更自分を守って何になる、と馬鹿らしくなって全身の力を抜いた。守るべきもの――仲間と呼べるかも怪しい人造人間たちは皆逃げ、たった一人だけ、乾燥と陸での走行が苦手な鮫人間の俺だけがここに残っていた。逃げたとはいえ、行く宛なんて無い化け物ばかりだ。きっとあいつらも遅かれ早かれ死ぬのだろう。

 どうせ死ぬのだ、この際死に方なんてどうでもよかった。抵抗する素振りは見せたものの、俺はこのよく分からない人間に殺されたって良いと思った。

 水分と酸素の枯渇によって視界が白く霞んでいる。赤と黒と白。くだらない人生の最期に見る景色としては、充分過ぎるくらい華やかだ。体中の傷口から、血液以外の何かが流れ出る感覚に身を任せ、目を閉じようとしたその時。



「諦めるな。君は生きる」


 黒煙を勢いよく割り開いた大きな手が、垂れ下がった俺の手首を強引に掴んで引っ張り上げた。


 滑らかで熱い、人間の手だった。殴りかかる訳でも、絞める訳でも、斬りつける訳でもない真っ直ぐな掌。


 男はざらついた俺の手を固く握りながら、不思議そうに言った。

「あれ、動けないかな。まあ君は下半身が海獣なのだから、無理に立てとは言わないけれど」

 それから鮫肌の混じる腰の辺りに手を添えて、力任せに持ち上げた。熱で炙られた尾を抱え、脇の下に肩を入れ込み、耳の尖った頭を躊躇いなく身体に押しつけた。その腕に化け物らしい鋭利な爪が触れても男はまるで動じない。


 いよいよ訳が分からなかった。俺は化け物だ。それなのにこの男は崩壊する研究所から俺を救出しようとしている。





 はたして男は優秀な救助者だった。燃え盛る室内を風のように駆け抜け、慣れた様子で壁をいくつも蹴破っていく。

 きつく抱きしめられているおかげで身体の揺れは殆どなく、初めはずっと恐れ慄いていた俺も、次第に安心感を見いだしていた。


 火花の代わりに、他の人間たちの声が俺と男を囲むようになった頃。俺はぬるい薬を男に塗り付けられながら、すっかり目を閉じて、揺蕩うように周囲の音のみを拾っていた。人間はこの化け物に意識がないと判断したようだ。好き勝手に話をしている。


「……いくらあんたでも許せない。どうして相談もなしに一人で向かっていったんだ!?」

「それは悪かった。でも結果的に正しい行動だったと思うよ。中に残っていたこいつを救えなかったら目覚めが悪い――」

「正しい正しくないじゃない! 運が悪ければあんたまで死ぬところだったんだぞ!」


 見知らぬ若い男の、洗い呼吸音が辺りに響き渡る。

 泣いているのかもしれない、と俺は思った。


「それは――」

「言い訳はやめてくれ!」

「二人とも落ち着け。でも確かに、今回の突入は危険すぎた。現にほら、出て来てすぐに施設が全壊したでしょう。ちょっとは後輩の言う事聞いて」


 やはり、男は仲間の静止を無視して救助に向かったらしい。結果的に俺は助けられたが、その行き過ぎた正義感は非難の対象となっている。当たり前だ、魔法の使えない普通の人間なら数分で死んでしまうような状況だったのだ。怒られるべきだと俺も思う。


「……悪かった」

「あーもういいよ。もういいから約束してくれよ、もう二度と一人で突っ込んだりしないって。僕らだってあなたのおせっかいを止めたいわけじゃないんだ」

「……」

「ねえ」

「……善処する」

「それ絶対善処しないやつじゃないか! 全くあんたは大した勇者だよ!」

「蛮“勇”の方のね、はあ、全くもう」



――勇者。


 この男は、「勇者」なのか? 

 聞いたことがあるようなないような。


「ところで助けたこの子はどうする? 邪悪な人魚みたいな見た目で、魔物の血が入っている……魔族や魔物がどれだけ人に憎まれているか、まさか君が知らないはずがないよね」

「こいつは他の仲間を逃がしていた。だから逃げるのが一人遅れたんだ。魔族だが、きっと優しい人間で、何より生物兵器研究の被害者だ。新しい幸せを掴む資格が十分にあると思わないか?」

「あんたは楽観的すぎる。こんな赤い肌の化け物、助けたところでそもそも引き取り手がないよ。瞳だってどうせ気持ち悪いくらいに赤いんだろ?」

「見た目は関係ない」

「あるさ! あんた以外の、ほとんどの人にとってはね。僕は魔族が嫌いだからこう悪く言うんじゃないよ、あんたの善意で糠喜びしたこいつが人間に見放されたとして、責任取れるのかって聞いてるんだ」

「そうしたら……」


 男は少し迷って、無愛想に、

「そうしたら、僕がこいつを弟子にするよ」

と答えた。


 俺ははっとして、それからくらくらとした。弟子と言ったか、この男は。こんな化け物を。弟子と?


「はぁ!? 弟子だって!? ありえない! 魔族を恨むあんたらしくない!」

「おい落ち着け! 気持ちは分かるけどしょうがない、一回言い出したら聞かない人なんだから」

「だって、」

「自分の弟子入りは拒まれたからって拗ねないの」

「ぐぅ……」


 せめて男の、自分の師匠となるかもしれない恩人の顔くらいは知っておきたい。そう無理に瞼をこじ開けたが、どうにも焦点が定まらず、直ぐに瞼が下がってしまう。

 それを見た男は笑うように息を吐き、俺の汚れた頭を撫でた。


「待っているよ」


 固い、肉刺だらけの掌の感触を今でも覚えている。

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