第7話 隠すこと
病院は公園の向かいにあるにもかかわらず、到着するまでに一時間くらいかかった。
市立蜜の宮総合病院。実際に来てみると大きな病院だった。対岸からは二棟に見えた建物は、正面入口側からは一棟しか見えない。おそらく縦に並んでいるのだろう。
ガラス扉の向こうに見えるエントランスは広々としていて、たくさんの椅子が並べられている。暗い影の落ちるそこに人は見当たらない。当たり前だ、まだ朝の八時なのだから。
「さ、さっきの人、は」
全速力で走ってきたせいで息が上がっている。上着を抜いで手に抱え、汗を拭う。
「公園から見えたっちゅうことは、奥の建物ちゃうか」
言いながら咲良くんは奥へと続く道を見つけ歩いていく。
角を曲がると一面の芝生が目に入った。
咲良くんは辺りを見渡す。右手側は海に面しており、さきほどまでいた蜜の宮公園の秘密の場所も、そこにあると言われれば確認できた。
「ここで間違いなさそうやな」
そう言いながら手摺を掴もうとした時、背後から声がした。
「あっ犬飼さん、あの方たちじゃないですか?」
振り向くと、車椅子のお爺さんと看護師らしき女性がいた。
女性は車椅子に座るお爺さんの方を叩きながら「よかったですね」と話しかけていた。対する老人は目を閉じて静かに頷いている。
わたしたちはゆっくりとその二人に近づいた。
「あの、よかったって……?」
わたしがそう尋ねると、看護師は「ごめんなさいねえ」と軽快に笑った。
「あたしは最近この病院に来たから他の看護師に聞いたんだけどね。犬飼さん、窓から海と公園を眺めるのが好きで、日がな一日ずっと見てたらしいの」
「あんたら、元気だったんだねぇ。よかった、よかった……」
お爺さん――犬飼さんがしわがれた手をそっと伸ばしたので、咲良くんはしゃがみ込んでその手を優しく握る。
「もう少し高いところからだったらわかりやすいんだけど、あの公園に木々に囲まれた小さな場所があってね。で、そこでたまに男の子と女の子がいたらしいんだけど、犬飼さんが一時退院してる間にみかけなくなっちゃったらしくて」
「……!」
わたしたちが公園を訪れたのは今日が初めてである。
であるならば――。
「犬飼さんが退院してた期間は、いつですか」
咲良くんもその可能性に気づいたらしい。真剣な声が、確信へと続いていることを物語っている。
「九月の初めから。先週、病院に戻ってこられたのよ。ねえ犬飼さん」
「その日は覚えとる。孫の誕生日だったから……確か、九月二十一日に家に帰ったのう」
事件が発覚したのは九月二十二日。つまり、犬飼さんは事件と入れ違いに病院を出ていた。当然警察の聞き込みもされなかったのだろう。
でなければ、こんな大事な情報を警察が見逃すはずがない。
「よかった。元気だったか。心配してたんだよ、あんたらのこと」
看護師の人が話しかけても、犬飼さんは仕切りによかった、よかったと咲良くんを気遣うように繰り返す。
「わしは目がいいからの、あんたらが泣いとったんもよう見えとった」
――咲良くんの手が、ぴくりと動く。少し力のこもった掌に驚いたのか、犬飼さんはゆっくりと首を傾げる。そして柔らかな眼差しで咲良くんと、そしてわたしを見た。
「……泣いてるように見えた? おじーさん。そん時の
……犬飼さんは、きっと香澄とダリアの密会を目撃していた。そしてその二人をわたしたちと勘違いしている。だからあえて咲良くんは誤解を解かずに聞き出すことにしたのだろう。
「あん時は、どっちも叫ぶように泣いとる……そんな風に見えた。特にあんた、そう男の方。泣き崩れて女に支えられて、宥められよったなぁ。そん後大雨が降り始めて……それが、あんまりに痛々しくてなぁ、わし、ずっと心配しとったよ、こんままどっか、消えちまいそうでなあ──」
その時わたしの頭に浮かんだのは、香澄の肩を抱いて宥めるダリアの姿だった。
……ああ、嫌だな。容易に想像できてしまう。
とても、嫌だ。
「だから本当によかったわ。こうしてふたりとも元気なんだからなぁ」
「……せやね。おおきにおじーさん」
彼は犬飼さんから手を離して、綺麗な礼をした。つられてわたしも会釈をして、少しだけ話をしてその場を離れた。
病院を後にして歩きながら、無言が続いた。なんとなく、何も話したくない気分だった。
まだ心臓が鳴り止まない。迫り上がってくるような嫌な音だ。落ち着かない。落ち着いてなどいられるわけがない。
どこに行くんだろう、どこに行けばいいんだろう。わからない。今、わたしたちはどこに向かっているのだろう――。
「予想はしてたんよ」
ぴたり、と。
止めたはずの蛇口から、水滴が落ちたように静かな声だった。その一言で、嫌な音は強制的に鳴り止んだ。
「ほぼ同じ時に、互いの花を抱えて死んだ。何も関係ないっちゅう方が偶然すぎる。きっと二人には何かあるって……実は恋人なんちゃうかって」
「まだ恋人だったとは決まってないよ」
咄嗟に声が出ていた。物凄くつっけんどんな言い方をしてしまった。
「……おねーさん、何か怒っとる?」
「……ごめん、何でもないの」
大人げない。今までの情報から考えれば、二人が付き合っていたという可能性を考えない方が馬鹿だ。大馬鹿者だ、わたしは。
数秒の沈黙。それを破ったのは小さな問いかけだ。
「……おねーさんは、ダリアさんが悩んどるって話、なんか聞いたりしとった?」
「ううん、全然」
「せ、やんな。おれもや。まあおれの場合は家出みたいなもんが悩みそのものって感じやったけどさ」
咲良くんは道に転がった小石を蹴飛ばしながら。
「家族以外に、あんなふうに感情を出してたっていうのが、なんかこう――淋しいわ」
自分では力不足だった、そう言われているようで。そして彼は――わたしは、大切な人の一番ではなかったのだと突きつけられたようで。
かける言葉が見つからず、俯いた時。咲良くんがさっき蹴飛ばした小石を拾い上げた。
「……なんてな。感傷に浸ってもしゃあない」
咲良くんは小石を掌で遊ばせながら微笑んだ。
強い人だな、と思う。彼には行動力とそれに伴う信念がちゃんとある。だから辛い気持ちになっても切り替えて前に進もうとしている。
「けどなあ、あのおじーさん以外に密会の目撃者がおるのは考えにくいし、他の場所で会うてたとも思えへんし。泣いとった理由はもうあの二人にしかわからへんのかもしれんな」
二人だけの仄暗い秘密。ダリアが教えたくなかったのだとしたら、わたしには知る権利がない。
その時――ふと、ダリアのあの言葉を思い出した。
『……でも、その時が来たら、レナちゃんだけは見ていいよ』
『パスワードは……いずれわかるわ。恥ずかしいけど、貴女には私のことを知っていてほしいから』
「……あ」
「どうかしたん」
いきなり立ち止まったわたしを不思議そうに見つめる咲良くん。
……あるじゃないか。ダリアの気持ちを、思いを知ることができる方法が。
あの日記になら――彼女は全てを打ち明けていたのではないだろうか?
わたしはそうだろうと確信していた。何故だかわからないけれど、そこにダリアの全てがあるのだと。
黙り込むわたしに「忘れ物でもしたんか」と首を傾げる咲良くんに向き直る。
ねえ、咲良くん。わかるかもしれない。二人の秘密。
そう言おうと思ったのに、口が上手く動かなかった。言いかけて止まってしまった。
「おねーさん? ほんまにどうしたん?」
「……いや、やっぱり何でもないの。ごめんね」
咲良くんが持っていた小石が、掌からするりと抜け落ちた。
……だめだ、やっぱりだめだよ。
わたしにはできない。事件の真相を探るためとはいえ、ダリアの思いを、他の人に見せたくない――そう思ってしまった。
「帰ろう、咲良くん」
わたしは……情報を掴むための手がかりがあると知りながら、沈黙することを選んでしまった。
それは一緒に真実を見つけようと約束した彼への裏切りに他ならない。
……ごめん、ごめんね、咲良くん。
やっぱりわたしは、大馬鹿者みたいだ。
先程とは打って変わって、いきなり歩き出したわたしに咲良くんは何か言いたげな様子でありながらも、無言でついてきた。
そのまま、わたしたちは駅で別れるまで、何も口にすることはなかった。
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