第27話 私たちの選択肢
実家の玄関を開けた瞬間、あゆみの胸は小さく震えた。久しぶりに帰る家の空気には、懐かしさと共に、重い緊張感が漂っている。隣にはすばるが立っていた。彼もまた、微妙な緊張を隠しきれない様子だった。
「ただいま。」
あゆみの声に応えるように、奥から母が顔を見せる。
「あら、あゆみ。よく帰ってきたわね。」
柔らかな笑みを浮かべた母の視線が、すばるに向けられた瞬間、少し驚きの色に変わる。
「星宮先生じゃないですか!」
母の声が弾んだ。
「お久しぶりです。星宮すばるです。」
すばるは一礼し、丁寧に挨拶をした。
「あゆみが高校の時は本当にお世話になりました。いっつも星宮先生の話をしてたから、よく覚えているんですよ。」
母は微笑みながら続けた。「三者懇談の時にお会いした時も、あゆみが言っていた通りの“かっこいい、かわいい先生”だなって思ってました。」
「お母さん!」
あゆみは顔を赤くして抗議したが、母はそのまま笑みを浮かべ続けた。
そのやり取りを見ながら、父は無言のまま、すばるをじっと見つめていた。その視線には、記憶を探るような色が浮かんでいる。
「星宮……?」
父は低く名前を呟き、眉間に皺を寄せた。その声には、微かな疑念が滲んでいた。
「あの、あゆみが高校の時に担任してくださった星宮先生ですよ。」
母が補足すると、父の表情が一瞬固まった。
「担任……?」
低い声で繰り返す父。その言葉には、記憶の糸を手繰り寄せるような響きがあった。その後、目を細めてすばるを凝視する。
「……ああ、卒業式の時に会った、あの星宮君か。」
その言葉には、気づいた驚きと、徐々に高まる警戒心が滲んでいた。
「はい。」
すばるは深く息を吸い込み、穏やかな口調で応じた。「実は、私はあゆみさんの高校時代の担任を務めておりました。」
「担任……それでか。」
父の顔に険しさが浮かび、その目はすばるを鋭く射抜くように見つめた。
「それで、今日はどういうご用件なんだ?」
父の低い声が玄関に響き渡る。その鋭い視線の先で、すばるは静かに深呼吸をして口を開いた。
「本日伺ったのは、ご挨拶と報告のためです。」
すばるの言葉に、あゆみが一歩前に進み出る。
「お父さん、お母さん……私の彼氏で、結婚を前提に付き合っています。そんなすばるさんを紹介したくて来ました。」
その一言に、玄関の空気が一気に張り詰めた。父の顔に怒りの色が浮かび上がり、言葉を紡ぐまでの一瞬が永遠に感じられた。
そしてあゆみがここに至ったまでの経緯を話し終えたところで、
「君たちがどんな思いでここまで来たのかはよく分かった。」
父はあゆみの言葉を聞き終え、しばらく黙っていた。
「ただ、それは君たちの視点だろう?私にはまだ、納得できないことがある。」
父の声は低く、静かだが、その中に抑えきれない怒りと疑念が滲んでいた。
続けて、あゆみが語った言葉を受け流すように首を振った。
「あゆみが語ったのは思い出話じゃないか。」
「お父さん…」あゆみは声を震わせた。伝わっていないという事実があゆみの声を失わせていく。
「そもそもその交際自体が非常識だと言っているんだ。元担任とはいえ教師と生徒、その上相手は2児の親?どこの世界に教師と生徒の結婚をする人がいるんだよ。卒業後だろうが、これが許されるのであれば、教師と生徒は異性の対象となってしまう。これでは学校は無秩序になるだろう。」
父は一息置き、さらに言葉を続けた。
「常識は人が秩序を保つためにあるものだ。それがあるから社会が成り立つ。娘であるお前には、その重みを理解してほしい。」
父の言葉に、あゆみは一瞬言葉を失った。だが、深呼吸をして口を開く。
「確かに、秩序や社会を保つために常識があることは分かるよ。でも……」
彼女の瞳に熱が宿る。
「その常識が、時代の変化に追いついていないことだってあるんじゃない? 例えば、昔は女性が働くことすら珍しかった。それが今はどう?時代が変われば、人の生き方も、幸せの形も変わっていくんじゃないの?」
「変わるべきでないものもある。」 父は即座に反論する。
「家族とは何か、家庭をどう守るべきか、そして血のつながりの大切さ。それは時代がどうであれ変わらない基本だ。」
その言葉に、あゆみの中で押さえつけていた感情が弾けた。
「私は、お父さんたちの言う“家族”の中でずっと孤独だった!」
あゆみは息をのみ込みながら、父の目をまっすぐに見つめ続ける。
「お父さんの言う『家族』は、ただ形を守ることだけでしょ?私には、形よりも中身のほうが大事なの!」
父と母の目が見開かれる。母は慌てて口を開こうとするが、あゆみの言葉がそれを遮る。
「お姉ちゃんが優秀だったのは事実だし、誇りに思ってた。でも、私はその陰に隠れて、“普通”を強いられるだけだった。“常識的な娘”でいることでしか、私の存在価値を証明できなかった。」
彼女の声は震えていたが、静かな強さを帯びていた。
「私にだって、私のやり方で幸せを求める権利があるのに、それをお父さんたちは見てくれなかった。」
父は言葉を失ったまま、険しい表情であゆみを見つめていた。
「でもね、すばるさんとその子どもたちは違うの。私がどうであっても、どんなに不器用で、どんなに間違えても、受け止めてくれる。私が初めて、普通じゃない“私”を見つけられたのは、あの人たちといるときなの。」
「だからと言って、非常識を正当化するのは違う!」
父が声を荒らげた。
「非常識じゃない!」
あゆみも声を強める。
「常識は、ただ守るものじゃない。アップデートしていくものなの!磨き上げて、自分たちにとっての新しい“常識”を作るものなんだよ!」」
父の言葉は鋭く、リビングの空気を一層張り詰めさせた。母も視線を伏せたまま何も言わない。
「あゆみ、お前はそれだけじゃないことも分かっているのか?」
父の声がさらに低く、鋭くなる。
「星宮君は、一度結婚生活を失敗しているんだぞ!家庭を壊した人間だ!家庭の重みや責任を背負いきれなかった人間に、娘を託すなんて、考えられるか!」
父の激しい言葉に、あゆみの胸がざわつく。だが、その動揺を押し殺し、失った声を取り戻す。そして、強大な壁に毅然と立ち向かう。
「任せるって?」
あゆみの声は震えていたが、その瞳は父をしっかりと見据えていた。
「いつまでも私を不出来なお荷物のように言わないで!」
父が驚いたように目を見開く。その隙を逃さず、あゆみはさらに声を強めた。
「私はすばるさんに、私の人生を“任せた”つもりなんてない!彼が完璧だから選んだわけでもない!私たちは、一緒に苦しんで、一緒に乗り越えて、一緒に笑っていくの!」
あゆみの声は涙で震えながらも、決意に満ちていた。
「私たちは“任せる”とか“守る”とかそんな関係じゃない。お互いに支え合って、一緒に歩んでいくの!お父さんが思ってるような不安定な関係じゃない!」
父は唇をきつく結び、拳を握りしめていた。
「そんなことを言って、結局泣きつくのはこっちだろう!」
「ああ、そうかもね!でも、そのときは私は、家族として、彼と一緒に乗り越える!」
父は怒りに声を荒らげるが、あゆみの言葉はそのすべてを受け止め、さらに押し返す力を持っていた。
「お父さんがどう思うかは関係ない。私の人生は私が選ぶものだから。失敗したっていい、後悔したっていい。それでも、この道を選んだのは私の意思だから!」
母が小さな声で割り込む。
「あゆみ……私たちは、ただあなたの幸せを願っているだけなのよ。そんな道で、本当に幸せになれるの?」
「お母さんが望む幸せじゃなくて、私が望む幸せを生きたいの。」
あゆみは母の目を真っ直ぐに見つめて答えた。
「私にとっての幸せは、血がつながっている人たちに囲まれることじゃない。私が私のままでいられる場所にいることなの。」
母の目に涙が浮かんだが、父は未だ険しい表情を崩さない。
「君はまだ若い。その道を進むことで、どんな後悔をするか想像もできていないだろう。」
「後悔してもいい。それでも、その道を選んだのは私だから。」
あゆみの声には揺るぎない決意が込められていた。
すばるが静かに立ち上がり、深く一礼して口を開く。
「ご両親が心配されるのも理解しています。ですが、私は彼女が選んだこの道を守り抜きます。それが非常識だと批判されても、私は彼女と子どもたちを支えます。」
父は沈黙し、視線を床に落とした。母は嗚咽を漏らしながらそっと涙を拭っていた。
あゆみはその場に立ったまま、小さく息を整えると、静かに最後の言葉を告げた。
「お父さん、お母さん。私はすばるさんと一緒に、自分の道を歩んでいきます。どうか、少しだけ私たちを信じてほしい。」
リビングに戻った静寂は、以前とは異なる色を帯びていた。父の険しい顔には、まだ解けぬ葛藤が残されている。しかし、その沈黙の中には、わずかながらも聞く耳を持つ兆しが見え始めていた。
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