第26話 決意の報告

 夜のリビングには静かな空気が流れていた。テーブルの上には湯気の立つカップが置かれ、かすかな香りが漂う。あゆみとすばるは向かい合って座り、それぞれが言葉を探しているようだった。


「明日、本当に両親に話すんだね。」

 すばるが静かに言うと、あゆみは小さく頷いた。その表情には、不安と決意が入り混じっていた。


「……怖いけど、ちゃんと伝えたい。」

 あゆみは膝の上で手を握りしめ、小さな声で呟いた。


「うん。でも、交際の報告だけにしておくのはどうかな?結婚の話は、卒業してからでもいいし、仕事が落ち着いてからでも遅くないと思うよ。」

 すばるの提案には、彼女を思いやる気持ちが滲んでいた。


「そうかもしれない。でも……それだと、私の覚悟が伝わらない気がするの。」

 あゆみはそう答えると、少し考え込んだ。


「あの時、どうして私にあんなふうに言ってくれたの?」

 あゆみは、手にしていたカップをそっとテーブルに戻し、すばるを見つめた。その瞳には、真剣さと少しの不安が滲んでいた。


 すばるはカップを手に取り、湯気の向こうに一瞬視線を落とす。その沈黙は、言葉を選んでいる時間のように感じられた。


「僕は一度離婚をし、子どもが二人いる。この状況でお付き合いを続けるのは、あゆみに将来への不安を抱かせると思ったんだ。」


 カップを軽く回しながら、すばるはまっすぐあゆみを見た。そのまなざしは、深い決意を秘めているようだった。


「だから早めに気持ちを伝えることで、あゆみの負担を少しでも減らしたかった。それに……知ってほしかったんだ。僕が真剣に、自分と子どもの未来を考えた上で、あゆみと生きることを選んだことを。」


「私も一緒だよ? 真剣に考えてすばるさんと生きることを決めた。それを早めに両親に伝えようと思ったの。相手が元担任で、子どももいるって知ったら、きっと親は不安になると思う。でも、先に話しておけば、これからの私たちの姿を通じて私たちが中途半端な気持ちでいるわけじゃないことを伝えられると思うんだ。」

 あゆみは強い意志を込めて答えた。


「すばるさんに言ったことなかったけど、私……ずっと孤独だったんだ。」

 あゆみはふと顔を上げ、どこか遠くを見るような目をした。


「孤独?」

 すばるが優しく問い返すと、あゆみは深く息をついて言葉を続けた。


「私の家族は表向きは平凡で、幸せそうだった。両親も揃っていて、友達も何人かはいた。でも、私……居ても居なくても変わらない、そんな存在だった。」


 あゆみの言葉に、すばるは静かに耳を傾けていた。


「お姉ちゃんは、成績もスポーツも全部完璧で、両親や近所の人たちからも『優秀な子』って褒められてた。でも私は……何をやっても目立たないし、期待もされなかった。お姉ちゃんが塾に通ってた時も、『お金がかかるから』って私は通わせてもらえなかった。学校の勉強だって普通で、親に自慢されるようなことは何もなかった。」


 その言葉には、過去を振り返る苦しさが滲んでいた。


「お姉ちゃんのお下がりばかりで、新しいものなんて何一つもらったことがなかった。それでも、『落ちこぼれにはなるな』って言われるだけで、どうしようもなかった。」

 あゆみの口調は穏やかだが、その奥には長年積もった孤独の痛みが隠れている。


「親にとって一番大事だったのは世間体だった。外では仲の良い理想的な家族を演じてたけど、その裏で、私は“迷惑をかけない良い子”でい続けるしかなかった。」


 彼女の声がかすかに震えた。


「でもね、すばるさん。ここでの生活を始めて、初めて“私がここにいる意味がある”って思えたの。」

 あゆみの瞳には、確かな光が宿り始めていた。


「それは……本当に嬉しいことだね。」

 すばるは穏やかに微笑みながら言った。その目には、あゆみを見守る優しさが溢れている。


「まだまだ未熟な自分だって分かってる。子どもたちにイライラしたり、自分の気持ちを整理できなくて落ち込むこともある。でも、それでも、この場所で少しずつ成長できていると思う。」


 あゆみの声には、自分と向き合う覚悟が感じられた。


「誰かに必要とされること、そして私自身もこの家族を必要としていることが、こんなに心強いなんて思ってもみなかった。」


「世間的には、私たちの選択は良くないかもしれない。だけど、死ぬ直前に“幸せだった”って思えたら、それが一番大事だと思う。」

 あゆみの瞳は涙で揺れていた。


 すばるは彼女をじっと見つめ、静かに微笑んだ。


「その気持ちがある限り、大丈夫だよ。僕たちはきっと乗り越えられる。」


 あゆみは立ち上がり、テーブルの上の携帯を手に取った。指先が震えたが、深く息を吸い込んで通話ボタンを押した。


「もしもし?お母さん、私だけど。」


「どうしたの?」


 母の穏やかな声に、あゆみは一瞬言葉を詰まらせたが、勇気を振り絞った。


「明日、実家に帰るね。紹介したい人がいるんだ。」


「紹介したい人……?」


 母の声には少し驚きが混じっていたが、あゆみはそれ以上の説明をせずに微笑んだ。


「明日話すから。」


 電話を切った後、あゆみは静かに窓の外を見上げた。夜空に輝く星が、彼女の決意を照らしているようだった。

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