第55話 静かなる導師の微笑
「では――今日から“世界構造史”の講義を担当する、ゼクリア・ロウヴァルだ。よろしく頼む」
教室に入ってきた男の声は、澄んだ水面のように静かでありながら、耳に残る余韻を持っていた。
灰銀の髪に、白金の細身の教師服。
瞳は深い青で、どこか“星空”のような無数の層を感じさせる。
その姿を見て、イアはすぐに気づいた。
(……この男、“人間”ではない)
いや、より正確に言えば――
“人間であることを演じている”、とでも言うべきか。
「突然だが、この世界に“神”は何柱いるか知っているか?」
静まり返る教室に、ゼクリアが問いを放つ。
「えっと……七柱ですか? 主要神は……」
誰かが答えかけると、彼はすぐにそれを遮った。
「その七柱という概念自体が、“書き換えられた記録”であるとしたら?」
生徒たちがざわついた。
「たとえば、君たちが知る“神”という存在が、
本来この世界を創造した存在ではなく――ただ、後から“名付けられた権能”だったとしたら?」
講義というよりも、これは“宣告”だった。
知識を教えるのではない。世界の根を問い直すための“揺さぶり”――
イアは窓際の席で、静かに紅茶を啜っていた。
(やっぱり、“始まった”んだね)
ゼクリアは間違いなく、旧神界の観測者――あるいは、それに連なる“守り人”の一人。
イアの覚醒を感じ取り、動き始めた陣営。
(でも、私は戦わない。……この世界が、今もこうして続いているなら、それでいい)
彼女の沈黙を、ゼクリアは見逃さなかった。
「そこ、窓際の君。……イア=ノール、だったか」
教室全体が彼女に注目する。
「君はどう思う? “世界の創造者”は、果たして記録された通りの存在だと思うか?」
イアはゆっくりと顔を上げ、ゼクリアの視線を受け止めた。
「神は……“記録される時点で、もう神じゃない”。私はそう思うかな」
「……なるほど。面白い意見だ」
ゼクリアの唇が、わずかに歪む。
それは、“同類”を見つけたときの微笑――あるいは、“敵対者”に向ける静かな敬意。
「君は……この世界をどう思う?」
唐突な問いに、教室が再び沈黙した。
だがイアは少しだけ考えて、はっきりと答えた。
「――大切な場所。だから私は、壊させない」
その言葉に、ゼクリアの目が細められる。
「……いい目をしているな。私も“かつて”は、そう思っていたよ」
(“かつて”……?)
その一言が示すのは、ゼクリアの立場――すでに“世界の側に立っていない”存在。
講義はその後、驚くほど穏やかに進んだ。
だが、教室の空気には、目に見えぬ“静かな綱引き”がずっと張り詰めていた。
放課後。
イアが中庭のベンチで一人本を読んでいると、ゼクリアが姿を現した。
「少しだけ、話せるか?」
「いいよ。……最初からそのつもりだったんでしょ?」
ゼクリアは微笑を浮かべた。
「君が何者か、すでに“神々”の一部は気づき始めている。君が世界の“根”そのものであることに」
イアは首を振る。
「私は、ただ“見に来ただけ”。……この世界が、どう進むのか。人が、どこまで歩けるのか」
「だが、君の存在そのものが“選択”を強いている。放っておけば、世界の均衡が崩れる」
「それでも、私は――壊したくない」
その言葉に、ゼクリアの表情が少しだけ変わった。
まるで、遠い記憶を思い出したように。
「……“彼”も、かつて同じことを言った。だから私は今、君に問う。
――“根源”よ。君は、最後の最後に世界を選ぶか、自分を選ぶか?」
イアは、答えなかった。
ただ、風に揺れる花を見つめていた。
(その答えは、まだ知らない。でも――)
私は、この世界を歩くと決めたから。
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