第47話 沈黙する実験棟

旧実験棟――


学園本棟から少し離れた場所に、時間からも歴史からも取り残された灰色の建物が存在する。

幾重にも封印術式が施された厚い扉の前で、イアは静かに手をかざす。


「……思ったより“雑”な封印だね」


指先から、光も音もない“解除”が走る。

神域すら解析するその意志の力に、封印はまるで許可されたように、音もなく解かれていく。


扉の向こうは、埃と沈黙に満ちた空間だった。


崩れかけた書架、割れた魔導ガラス、そして床に散らばる大量の文献と結晶体。

しかしイアの目が止まったのは、部屋の最奥にぽっかりと開いた“空間の裂け目”だった。


(……やっぱり、これは)


裂け目の周囲には、ゆらゆらと揺れる世界構造の“優先順位”が見える。


イアにしか視認できないその秩序の層は、まるで上書きされたかのように歪み、別の意志がそこに介在していた。


“書き換えられた世界”。


それは通常、神域の干渉か、あるいは――


「まさか、“上層階の存在”がここに手を出した?」


イアの中で、静かに怒りが沸き起こる。

けれどそれは熱ではなく、凪のような感情だった。

彼女――“この世界そのもの”であるイアは、己の構造を侵されたことに、淡く、けれど確実な拒絶を感じていた。


そして――裂け目の中心から、一つの“意志”が現れる。


それは人型でも獣でもなく、ただ重く圧縮された“概念の残滓”。

旧世界に属する《守護者》の一つ。既に滅んだはずの存在だった。


『……世界構造、確認。対象:異常存在。処理対象――“創造核”』


その声は直接、精神領域に響く。全方向から、時間を越えて語りかけるような質感だった。


「……ああ。やっぱりあなたも“わたし”を敵と認識するんだ」


イアは静かに微笑んだ。

その姿に“守護者”は一瞬、識別構造を揺らがせる。

それでも命令は変わらない。

この世界を守るために、“世界そのもの”を否定するというパラドックスに従って、動き出した。


『干渉開始――世界優先構造、解除領域、収束。』


一瞬で空間の魔素が弾け飛ぶ。

通常の魔術や攻撃ではない。これは“世界設定そのもの”を上書きする、旧神の力。


だが。


「――やめておいたほうがいいよ」


イアの声が重なる。


次の瞬間、“世界の優先順位”が逆流する。

“守護者”が支配したはずの空間構造が、まるで自ら従うようにイアの意志へと“上書き”されていく。


それはまるで、世界が正しい主を思い出したような、静かな“反転”。


『……優先権、消失。存在構造……溶解。』


守護者の意志は、音もなく消えていく。

敵意も、記憶も残さず。

まるで“最初から存在していなかった”かのように。


イアはゆっくりと空間に手を伸ばし、“裂け目”を優しく閉じた。

そこにはもう、歪みも干渉も存在しない。


「……ごめんね。でも、わたしはわたしの世界を守る」


彼女の言葉に応えるように、空間は静かに安定していった。


だがその瞬間――


遠く離れた“神界の深層”で、一柱の主神が目を開いた。


『……あの意志は……生きていたのか。』


封じられた神々の中で、わずかに残った“本質の視座”を持つ存在。

彼は微かに、怯えを含んだまま、世界の構造図を見つめていた。

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