第24話 ヘリンボーンのコート
長いキスが終わると、彼はふっと笑った。
「これでハンフリー・ボガードの台詞の意味が本当の意味でよくわかったよ」
「ハンフリー・ボガード?」
「うん。ヘミングウェイ原作の『誰が為に鐘は鳴る』という映画の最後にキスシーンがあるんだ。その時ヒロインに言うんだよ。鼻と鼻が当たらないようにするには、顔を傾ければいいんだよって」
ふふっ、とわたしも笑ってしまった。まさにその通りだったから。
「キスのおさらいをしよう」
月丘はわたしを腕の中に入れると、二度、三度、口付けをした。
そうしているうちにやかんのお湯が少なくなって、月丘は慌てて水を足す。わたしは普段、彼の見せない余裕のない姿を見てうれしくなる。意地悪かもしれないけど、これはわたしだけが知ってる月丘だ、と――。黒いコートを翻して歩いてるだけの男じゃないんだということ。それをみんなは知らない。
その後、最後まで映画を見てから月丘はヘップバーンのDVDコレクションを見せてくれた。
「ニコに初めて会った時は驚いたよ。日本にヘップバーンがいるなんて」
「大袈裟だなぁ」
「でも僕には特別だった。胸が高鳴ったんだ。彼女に少しでも近付きたいって――ほら、『サブリナ』のヘップバーンがいちばんニコに似てる」
「わたしはこんなに美人じゃないよ」
苦笑する。それはこの男の錯覚だ。
「そんなことを言うのが美人の証拠なんだよ」と。
わたしは決して美人じゃないし、鼻の脇のそばかすが決して消えないし、ヘップバーンみたいにプロモーションも良くない。
そんなわたしが彼女に似てるだなんて、どんな夢を見てるんだろう? もしその夢が醒めてしまったら?
「なにを考えてるか当ててみようか? 僕がすきなのはニコで、ヘップバーンは単なるきっかけに過ぎないんだよ。何故なら僕は銀幕の上の彼女しか知らないし、代わりにニコのことならよく知ってる。比べるまでもない。ニコが一番だ」
「そうかな?」
「そうだとも」
わたしに変な自信をつけてどうするつもりよ、と月丘の顔をじっと見る。彼もまじまじとわたしを見る。
「わたしは、誰に似てても似てなくても、月丘が一番だから」
「あのコートは売りに行こう」
「へっ?」
「ああいうコートがすきなヤツもいっぱいいるだろう。そうだ、新しいコートを買って、あれは売ろう」
「月丘⋯⋯」
気持ちはうれしかった。彼がそこまでわたしを思ってくれていることに感謝が必要だと感じた。なんと言ってもみんなの憧れる月丘だ。独り占めしていることが既に奇跡だ。でも。
「こんなことを言うと嫌な思いさせると思うけど、あのコートはやっぱり特別なんだ。上手く説明できないけど、思い出なのかもしれないし、親しみなのかもしれない。売るなんてとても考えられないよ」
「⋯⋯そうか」
それ以上、コートの話題は出なかった。わたしは「帰るね」と言った。
「気分を害した?」
「ううん、気持ちはわかるもん。月丘こそ、浮気はなしだからね」
「誓うよ」
おやすみ、と言うと、思った通り彼はストーブを忘れずに消してコートを羽織って出てきてくれた。
わたしは二着のコートの相性はあまり考えないことにして、黒いコートにダウンの腕を絡ませた。月丘はその腕を見て、そして、ふっと笑った。
「でもコートは買わせてくれ。ニコに似合いそうなコートを見つけたんだよ。おじさんコートに似て、クラシカルな形をしているんだ。きっと気にいるよ」
「うーん、高すぎないなら」
「ニコの価値は僕が決めるものだから」
そうなのかなぁ、と考えてみても答えは出ない。でもわたしはとりあえず、月丘の腕の中に包まれているのが癖になりつつあるので、月丘のコートに包まれたら抜け出せなくなるかもしれない。
知らないうちに、わたしは月丘の引力にひかれていた。
◇
月丘に合わせるとダウンはやっぱり合わないので、自然、おじさんコートに身を包む。匂いを嗅いでみても慧人の匂いはもうしない。
当たり前だ。彼にもらってから何回クリーニングに出したことか。これこそ古着屋さんで買ったようなものなのにな、と思う。そういう風に月丘も捉えてくれたら話は簡単なのに。
ピンポーン、と音がしてドアを開けに行く。ドアを開けると慧人がそこにいた。
「ニコ、その確かめないでドアを開ける癖、いい加減直せよ」
慧人はわたしに金属製のなにかを投げると、カンカンと音を立てて階段を降りていった。それは、引っ越してきた時に慧人にあげた合鍵だった。
わたしはそれを見て、何故かものすごく悲しい気持ちになり、彼の後を追いかけようとサンダルをつっかける。
「慧ちゃん!」と階段を降りかけたところで月丘に会った⋯⋯。
気まずい。
目には涙まで浮かんでいる。
深呼吸して、顔も上を向く。涙が落ちてこないように。
「さっき高田くんに会ったよ。『ニコを大事にしてくれ』って。彼はなかなか男らしいところがある」
「そんなことさっきまで思ってなかったくせに」
「ニコだってさっきまで彼を追いかけようと思ってたんだから、おあいこだよ。それともまだ追いかけるかい?」
いいの、とわたしはその場に座り込んだ。寒風吹き荒ぶ外階段に、ふたり並んで座る。
「これ」
さっき受け取った鍵を月丘に渡す。月丘はわたしが握りしめて、温まった小さな金属を手のひらに乗せた。
「今日から月丘が持っててくれる?」
「いいのかい?」
「なにかがあったら、助けに来てくれるでしょう?」
「勿論だ。勿論だよ、ニコ」
彼はわたしの肩を抱いた。黒いコートはまるで闇が太陽を隠すようにわたしを眩しい思い出から隠してくれた。思い出から、これで解放されるんだろうか? それはわからなかったけど、こうして少しずつ、角度を変えてわたしと慧人は離れていく。この鍵が、その大きな一歩に思えた。
◇
結論から言うと、わたしは結局説き伏せられて月丘のお金でコートを買った。決していいこととは思えなかったくらいお値段がかわいくなかったけど、それで彼が満足するのならいいんだろう。
新しいコートは女性もので、モノクロのヘリンボーンの生地でできていて、開いた襟の形と後ろに二つの黒いボタンが着いたベルトがクラシカルなコートだった。確かにわたしはそれを一瞬にして気に入り、袖を通したい気持ちになった。
月丘は得意げに「僕の見立てはどうだった?」と訊いた。
お金で愛は買えないけど、思い出は上書きできるのかと思うと不思議な気持ちになった。
デパートを出る時、やけに丈夫で上品な紙袋におじさんコートは入れられ、まるでもう引退なんだよ、と告げられているようだった。そんなことないよ、と言ってあげたかったけど、鍵を返しに来た慧人を思うとそうは言えなかった。
おじさんコートは引退の時を迎えたのかもしれない。新しい、ヘリンボーンのコートに替わって。
悔しいことに腕を組むと、月丘のコートにヘリンボーンのコートはとてもお似合いだった。月丘がこれを推してきた理由がよくわかる。
そしてついでに、月丘のものより明るい青色のストールと手袋を買ってくれた。
ストールはカシミア、手袋は牛革をチョイスしようとしたので丁重にお断りする。でないとわたしは金で買われた女のようになってしまう。
わたしからもお返しになにか買いたいと思ったけれど、すぐには思い付かなかった。月丘の好みを知らないということに沈んだ。
結局、ヘップバーンといい、お返しといい、わたしは月丘のことをなんにも知らないんだ。そのことに打ちのめされる。
――月丘にとって特別な女でいたいなら。
まだまだ彼を知らなければいけない、と考えて、それこそ恋というものなのかもしれないと思い当たる。
「だいすき」
腕を組んだまま、ぼそっと呟いてみる。
「ニコの趣味に合ってよかったよ」
彼は心からホッとした顔をした。
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