第23話 初めて

「おはよう」

 ポケットに両手を突っ込んで、挨拶する。月丘から「今から行くよ」と連絡があったので、前もって支度しておいた。

 おじさんコートはとりあえず封印。クローゼットの奥深くに眠ってもらうことにした。となると、ほかに防寒着は持ってないのでこうなる。

「⋯⋯」

 わたしを見た月丘は眉根を寄せた。嫌なものを見た、とハッキリ顔に書いてある。今までそんな風に思ったことがなかったけど、なかなか表情豊かだ。

 彼の考えがわかるような気がして、小さくなる。


「ニコ。それは明らかな嫌がらせかい?」

「そんなことないよ」

「そのダウンは高田くんと確かお揃いだったはず」

「ほかに上着、ないもの」

「⋯⋯買ってあげよう」

 え! それはまずい。

 慧人の買ってくれたのは値段がわかってたし、それ相応の品だけど、月丘の買ってくれるものと言ったら想像がつく!

「僕が選んだものじゃ嫌?」

「嫌じゃないけど、贅沢だよ」

「目の前でほかの男の気配をチラつかせられるより、金銭などほんの少しの痛手だ」

 誰だ、嫉妬深いと言ったのは。この男自身じゃないか?


「ねぇ、おじさんコートじゃダメなの? あれがしっくりきてるのに」

「見る度に彼を思い出す」

 月丘はなにを思ったのか、玄関先でわたしを抱きしめた。

「高田くんとは別れたんだろう? それとも忘れ難い思い出にまだ埋もれてるの?」

「そんな! 忘れ難いなんて」

「⋯⋯気分を害したので、今日はこれで失礼するよ」

「そんな⋯⋯」

 月丘は皮の手袋をキュッとはめて、出ていってしまった。こんな時、本当に迷う。すがり付く女になっていいのかどうか⋯⋯。

「月丘!」

 わたしはダウンを脱ぎ捨てて、セーターのまま、月丘を追いかけた。つまりバカな女になる方を選んだ。

「ニコ! そんな格好で外に出たらダメだよ。また風邪をひいて咳を悪化させる可能性があるんだよ」

「そんなことどうでもいいから、見捨てるみたいなことしないでよ」

「⋯⋯。悪かった、二度としないよ。今日は家にでも来るかい? 美味しいお茶を買ってあるよ」

「うん、そうする」


 月丘がわたしをすきでいてくれて、本当に良かったと思う。このままじゃ風邪をひきかねなかった。


 渋々、おじさんコートを認めた月丘は「やっぱり近いうちに買い換えよう」と言って、やさしくわたしを抱きしめた。すん、とグリーンノートの香りに癒される。この香りこそがわたしのよく知る月丘だ。

「ねぇ、そんなに嫉妬深いのに、どうして⋯⋯」

 その先の台詞は出なかった。有珠の「あ」の字も月丘に聞かせたくなかったからだ。

「有珠嬢のことか。あれは本当に反省してる。ニコを傷付けたし、彼女も傷付けた」

 わたしたちは近道するために三角形の公園を横切るように歩いていた。砂場と、象の形の滑り台が近くにある。

「⋯⋯どうやって別れたの?」

「最初と同じだよ。年末までで勘弁してほしいって頼みこんだんだ。そんなのおかしいかな?」

「『綺麗な髪』は年末でお払い箱になったんだ。有珠、かわいそう」

「どっちなんだよ!?」

「わたしだってどんなに嫉妬深いか知らないくせに!!」

 言ってしまってからハッとする。そういう女になりたかったわけじゃないから。


「ニコ、本当にあの件は申し訳なかった。僕は誓うよ。もうほかの女性とは手を繋がないし、髪に触れたりしない。お世辞でも褒めたりしない。僕にはニコだけがいればいいんだ。ニコのいない人生なんて考えられない。高田くんのことは忘れよう。それでフィフティ・フィフティだね」

「じゃあこのコート⋯⋯」

「コートは買い換えよう。あげられなかったクリスマスプレゼントだと思えばいい。先日入った店でちょっと気になるコートがあったから」

「コートは許せないわけね」

「これから見に行く?」

「よしておく。風邪ひくよ」

 そうだね、と言って月丘はキャラメルラテを自販機で買うと、わたしの手の中に入れる。「暖かいだろう?」と言葉を添えて。


 ◇


 月丘の部屋には相変わらずこたつはなくて、代わりにストーブが置かれていた。丸いヤツじゃなく、四角い小さめのものだった。

 月丘はストーブに火を入れた。

「リサイクルショップで見つけたんだよ。なかなか味があるだろう?」

「うん、暖かい⋯⋯これでこたつ買わないで済むね」

「ニコのすきな座卓のままでいられるだろう? 普通、アパートはストーブ禁止のところが多いんだが、ここは古いアパートだからね、禁止されてないんだよ」

「へぇ」

 ストーブなんて学校でしか見たことが殆どない代物だったので珍しい。なんにせよ、これであの毛布にくるまれる女の子がいなくなるのはいいことだ。


 ⋯⋯月丘のあの毛布こそ買い換えてほしい、と思ったけど声に出さなかった。悔しいけど、わたしはあの毛布がすきだから。あの、厚手の昔ながらの毛布の中でのことを、わたしは忘れられなかった。

 毛布の中の思い出も。

 と思うと、やっぱり有珠のことが頭に浮かんでどうにかなりそうになる。行ったり来たり、頭の中が忙しい。


「ニコ、お茶入ったよ」

「うん」

 ストーブの上にはやかんが置いてあり、シュンシュンと音を立てて水蒸気が出ている。加湿器要らずだ。

「今日は何茶?」

「今日は狭山茶。粉っぽいんだが、深煎りしてあってよく出るし、熱湯でいれても美味しい。今日はさすがに寒いから。ニコに暖まってほしいっていう僕の気持ちの表れだよ」

 そんなことを言われるとキューンとなる。女の子の自分が起き出して、頬の熱が上がる。月丘みたいな男からこんなことを言われたら、みんなそうなるだろう。

「とびきり暖かいよ」

「それは良かった」

 月丘はやっと満足そうに笑った。


 改めて部屋の中を見ると、月丘の部屋は簡素で、書棚と座卓、辛うじてTV、HDDレコーダーがあった。それでたまに映画を観るという。どんな映画を観るのか、と訊くと、殆ど知らないタイトルばかりで、古い映画がすきなんだと言った。

 これでどうしてわたしと話が通じるのか、さっぱりわからない。いつもどんな話題で話してたっけ、と考えてみたけれど、思い付かなかった。

 その点、慧人とは一緒にいた時間が長かったし、すきなものが似通っていた。すきなマンガも、アニメも、映画シリーズも、ゲームも、話題に事欠かなかった。

 これから先、月丘とどう付き合っていいのかつい考えてしまって及び腰になる。


「この前話したか忘れてしまったけど、古いラブストーリーでも観てみる? ここでお茶してるだけじゃ暇じゃない?」

 座卓の上に置いてあったリモコンを手にして、月丘は言った。とりあえず話のとっかかりに観てみることにする。

 月丘は隣に来るように、と座布団を用意してくれる。わたしはそれに従った。ふたりで毛布を膝にかける。

 その映画はモノクロで⋯⋯ヤバい、ついて行けるかわからないと危機感を感じる。でもラブストーリーだと言っていたし。

「この人、知ってる」

「オードリー・ヘップバーンだよ。ニコみたいだろう? ショートカットがよく似合う」

「彼女がすきなの?」

「ほかにもすきな女優はいろいろいるけどね」

「ふぅん」

 なんとなく面白くない気持ちになる。わたしのショートカットがすきなわけじゃなくて、ショートカットの似合う女優がすきだったなんて。ムカムカしてくる。


 映画は次第にロマンティックな展開になり、彼女をフッた男も彼女に夢中になる。そして――。

「ここからがいいところなんだ」と月丘はわたしの手を握った。映画に夢中のふりをして、どさくさに紛れて。

「止めて」

「面白くなかった?」

「そうじゃなくて。手を握るくらいなら――こんなにロマンティックな映画を見せるくらいなら、キスのひとつくらいしてくれてもいいのに」

「ちょっと待ってニコ。僕から言うつもりだったのに。ニコ、キスをしてもいいかな?」

 うん、とわたしは控え目に答えた。目を瞑り、彼の手がわたしの腕を掴むのを感じる。段々、近づいてくる⋯⋯。

「痛っ!」

「ごめん、歯が当たってしまって」

「いいの、よくあることだし」

 そうそうあっては困ることだけど、始めのうちはよくあることだ。つまり、わたしはファーストキスの相手だったのかもしれない。


 ただそれだけで天にも昇る気持ちになって、自分から彼の両頬に手をやる。頭を抱えるようにして、彼の唇に自分の唇を付けた。

「女からするなんて、はしたなかった?」

「いや、これからの長い付き合いの中では何度もあるだろうから」

 月丘はかわいそうなくらい緊張した面持ちをしていたけど、そろりとわたしの両肩に手を置くと、今度はこの前のように正しい角度でわたしにキスをした。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る