第十九話 臨界
「え、なあに?」
椎名が不安そうな表情できょろきょろと辺りを見渡す。
そば屋から血だらけの男性が床を滑ってガラスの壁に打ち付けられる。べっとりした深紅の血痕がそば屋へ禍々しく伸びている。
「ぇ…………?」
距離が近かった椎名は、思考が追いつかないのか、固まったまま動かない。
暖簾が揺れて奇妙な顔がプリントされた帽子を被った男が現れた。視線が定まらない男の手にはナイフが握られていて、手は真っ赤な血に染まっている。
本能が危険信号を隈無く巡らせる。全身がびりびりと刺激された。
一瞬の静寂のあと、大きな悲鳴が辺り一面に響く。店内から店員や客がおぼつかない足取りで逃げ出てくる。ナイフを握った男は無頓着に眺めていたが、しばらくすると店内に侵入し、一人の女性を連れてきた――涼介のお母さんだった。俺は全身の血の気が引いた。
男は舌舐めずりをしながら涼介のお母さんの首元に血ぬれたナイフを突き付け、じりじりと倒れている血まみれの男性へと近づいていく。
「かーちゃん……?」
「りょ、涼介……来ちゃダメ……」
涼介は口を振るわせて、ゆっくりと母親の元へと歩を進める。
「涼介」
俺は彼の手首を強く握りしめる。絶対に近寄ってはいけない。それだけはわかった。
男は涼介を見ると、面白そうに笑い、首元にナイフを当てたり離したりを繰り返す。男の目は凶器に満ちている。今になにをしでかすかわからない。
「かーちゃんっ!!」
涼介は今まで聞いたことがない悲痛な叫び声を上げた。
「おーっとそこの眼鏡、それ以上動いてみろ。この女ぶっ殺すぞ」
男は恭一郎先生がポケットに手を入れたのを見逃さなかった。観念して手を上げる。
「涼介くん……今はあの男に従うんだ。落ち着け」
恭一郎先生が荒く呼吸を続ける涼介を睨む。
「ふざけんな! おれのかーちゃんがっ……かーちゃんがっ!」
半泣きで涼介が恭一郎先生に訴えかける。男はそんな涼介の反応を楽しむように、人質の身体をまさぐったり、嫌らしく舌で首元を舐めたりしていた。
怒りで血管が切れそうだった。だが俺は目を見開いて唇を噛みしめていることしかできなかった。涼介は大粒の涙を零しながら、耐えがたい屈辱を受けていた。
この場を覆すことができるような策があるとすれば一つだけ。
「涼介……」
「なんだよ……」
今にも暴れ出しそうな涼介に声をかけることはおそらくこの中で俺にしかできない。しかし彼はそんな俺の声でさえ煙たく感じているらしく、獣のような鋭い眼光で睨み付けてくる。
「落ち着いて聞いて。ナチュに、お母さんを助けてもらうようにお願いするんだ」
「…………本当にうまくいくのか?」
「海斗くん、それは……」
恭一郎先生が言葉を濁して、そのまま口をつぐんだ。
「頭の中でイメージするんだ。お母さんが助かる場面を。そうすればぜったい叶えてくれる」
「信じるぞ…………お前の言うこと」
「信じてよ。お前の一番の親友を」
俺は精一杯の笑顔を作った。そうでもしないと、不安で心が砕けてしまいそうだったからだ。確信なんてない。とても怖い賭けを涼介にやらせようとしているのだから。
涼介はフードの下に見えるナチュの瞳を見つめ「頼むぞ」とナチュを持ち上げた。
「あ? てめえ動くんじゃ――」
男は突然前に出てきた涼介に声を荒らげる。お構いなしに涼介は大声で叫んだ。
「ナチュ! かーちゃんを助けてくれ!!」
――静まる辺り一面に涼介の声だけが響き渡る。
ただのタイムラグであってほしい。涼介のお母さんを助けてくれることを切実に願った。
――だが実際は空間が振動することもなく、ましてや発光現象が起きることもなかった。涼介の震えた叫び声がショッピングモールに響き渡るだけだ。
「おいなにやってんだ。それ以上動いてみろ、大事な大事なお母ちゃんが死ぬところを――」
「――なんで、なんで叶わないんだよ! おいっ、ナチュ! ちゃんと聞いてんのかよっ!?」
涼介は男の言葉に聞く耳を持たず、抱いているナチュに乱暴に問い詰める。鬼のような表情で、ナチュの首を絞めた。苦しそうに鳴くナチュの声が俺の胸をぎゅっと締めつけた。
「涼介! やめろ!」
俺が飛び出そうとしたとき、怒り狂った男がその手を涼介のお母さんの首元へ向かわせる。
「うわあああああああ、やめろおおおお!! あいつを殺せッ、ナチュ!!」
「凉……介……っ」
大粒の涙を流し涼介はナチュに命令した。正気の沙汰ではない言葉を俺は聞いてしまった。
熱くなってしまった涼介を止めるのは今までも、これからも俺の役目だった。トラブルを俺の元に持ってくる迷惑な親友。……だから今回も俺は涼介の頭を冷やすべきだった。いや本当にそうなのか? 最愛の人が人質に取られ凶器を突き付けられている状況下で? もしそれが自分だったらどうする。きっと止められたって強行するだろう。
俺は……親友として涼介になにをしてあげられた。一体どうすればよかったんだ。
俺は今でもその答えがわからないでいる。
――時間が止まる。宇宙空間に投げ出された感覚に包まれる。
黒と紫の気泡のようなものが浮かんでいる。おそらくナチュの不思議な力の一つだ。
気泡は男に次々くっつき、やがてその身体を赤黒い半透明な泡の中に閉じ込めた。
次の瞬間――ぷちん、ぷちんとなにかが破裂する音が無数に鳴り響く。半透明だった泡は隙間なく赤く染まり、ぱちんという音と共に消え失せた。
人間の胴体から伸びているはずの四肢が、次々に血の海へ音を立てて落ちていく。黒に近い大量の血がアメーバのように床一面に広がっていき、それは俺たちの足下にもすぐ届いた。自分たちの身体を見てみると返り血が大量に付着していて、嫌な匂いもする。
「はは……やった……よかった……かーちゃんっ……」
凉介は抱いていたナチュを投げ捨てて、バラバラになった男のどこかわからない身体の一部を蹴っ飛ばし、血の海で倒れる母親を抱きかかえた。
「かーちゃんっ……かーちゃんもうだいじょうぶだよっ」
凉介は自分の腕の中の母親に光が宿っていないのを見た。首から吹き出ている血を押さえて、ぎゅっと身体を抱いた。涼介はひたすら泣き叫んだ。その悲痛な叫びを悲しむように腕の中の亡き人は顔にかかった血の雫を頬から零した。
凉介は血走った目を俺たちに向ける。――それはもう友達に向けるような視線ではなかった。
「ナチュを貸せ! はやくしろ!」
「ナ……チュ?」
大きくなっている。競走馬ほどの大きさだ。纏っていた衣服は破けて、朱と黒の躰が見える。
ナチュの表情からはまるで優しさを感じられない。穏やかな表情はどこかへ行ってしまったようで、鋭い目を尖らせ、丸かった爪もかなり鋭利なものになっている。禍々しい野生生物のようで、今にも俺たちを喰い散らかしそうだ。
俺は自分より大きくなったナチュに手を伸ばすが、ナチュは唸りながら俺の手に噛みついた。
「痛って!」
「がうっ」
噛まれた手を思いっきり振り払うと、ナチュはまるで舌打ちでもするように低く唸った。噛まれた部分はくっきりと歯形が残っていて皮膚が乱暴に破けていた。
「ナチュ……おまえ」
「なにやってんだ、早く貸せっ」
まるで物でも扱うように凉介はナチュに触れると、倒れている母親を指差して言った。
「ナチュ、かーちゃんを生き返らせろ」
凉介が二度目の願いを言い終えると、また時間が停止したような感覚が俺たちを襲った。
目の前に広がっている血の海に黒い暗雲が立ち、その雲の隙間から――一筋の黒い液体が涼介の母親に注がれた。冥界からの呻き声と共に肉体を赤黒くさせる。
「…………ち、ちがう……こ、こんなの……」
涼介はしきりに否定し続ける。現実を受け入れることができない涼介はその場に泣き崩れた。
まるでホラーゲームに出てくるゾンビのように、涼介の母だった人は牛歩で涼介に近づくと、ゆっくりと息子を抱きしめた。
「――こんなのっ……かーちゃんじゃない!」
涼介は拳を振り上げて、かつて母だった人のどろどろの顔面を殴りつけた。柔らかくなってしまった首の肉がねじ切れて、ぽろりと落ちた。
「は、はは……これは……きっとわるい夢だ……」
涼介は乾いた笑い声で、首から上を失った母を見てそのまま意識を失った。
一方の俺は血の海から一歩も動けなかった。椎名や美羽も失禁して、気を失っている。
恭一郎先生が注射器を、黒くなったナチュに突き刺すと、ぐったりと大人しくなった。
意識が朦朧として視界が歪む。いつの間にか唯香さんとナチュはどこかへ消えていて、やがてやってきた警察と恭一郎先生が話し込んでいる。
もうこのあたりは覚えていない。夢なのか、現実なのか、判断できなかった。
後から耳にした話だが、今回の騒動は怪奇事件として取り上げられ、世間を騒然とさせた。
被害者男性一名、被害者女性一名、加害者男性一名が全員死亡、うち二名は謎の死を遂げた。
被害者男性は加害者男性による刺殺で間違いないが、被害者女性の肉体は死後数十年は経過した腐った身体であることが発覚し、加害者男性の死因もまったく解明されず、専門家は超強力な重力で圧縮して潰れていると報道した。現実的に不可能、証拠もなに一つないことから、ホラーだオカルトだと騒がれ、世界中に注目された。
俺たちはすぐに保護され、しばらく警察による事情聴取を受けた。俺はナチュの存在や、持っている能力について一切喋らなかった。
それより、涼介に合わせる顔がなかった。母親をあんな形で失ってしまった親友に。俺が涼介のお母さんを殺したも同然だった。俺がみんなでナチュを育てようとしなければ、きっとこんなことにはならなかったはずだ。
時間が経つにつれ、みんなは学校に登校してくるようになったらしい。……涼介でさえも。
だが俺はしばらく学校に行くことができずにいた。心配して家にやって来るみんなとは一切会わず、毎日を自宅で過ごした。小学校の卒業式だけは親に泣かれてなんとか登校したが。
ナチュの陣のみんなに会うのが怖かった。すべて俺のせいだと自分を責め続けた。
無論、俺の周りにはもう友達と呼べるような人はいなくて。独りっぼっちがこんなに寂しいものだったんだと、初めて気がついた。
中学生になる頃には涼介もだいぶ回復したらしい。本当に強いやつだと俺は思った。一方で俺は気分によって学校に行ったり行かなかったりの毎日だった。
自分の勉強机の上に置いてあるフォトフレームを見るたびに思う。
俺はきっと人生で一番大切な宝物を失った。
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