第2話 シエル

 少女の名は「シエル」。裏通りでは少しだけ有名な獣人の絵描きだ。


 男は懐から1つ、巻物を取り出してシエルに手渡す。それを解いた彼女はまた、ニッと口角を上げて笑ってみせた。それは、なにも書かれていないただの真っ白な紙。


「――とってもキレイ……。真っ白な紙ってけっこう高いですよね? こーんなキレイな紙に描けるなんて、今日のあたしはきっとツイてますね!」



 紙をいっぱいに引き延ばし、一時見つめていた彼女は、キュッと唇を閉じる。真っ平で大きな木の板の上にそれをのせ、四隅に重しの石をのせた。最後に指で何度かさすり、しっかり固定されているかを確かめている。


 そして――、シエルは筆先に絵の具をつけ、じっと白紙を見つめた。


 男はその様子を、固唾をのんで見守っていた。彼はただ、絵の完成を待っていればいいのだが、絵筆を手にした少女からはそれほどの緊張感が伝わってくるのだ。



 ひょっとするとあの白い紙の上に、彼女はもう何度も絵を描いているのかもしれない。頭の中でいくつものイメージを描き、その中の最良をここに記そうとしている――、男はそんなことを考えていた。


 一度、筆を紙に落とした後、そこからはとても早かった。一切の迷いなく、まるで時間の経過によって今あるイメージが消えてしまうのを恐れるかのように……。


 流れるように曲線を描き、時に繊細に細部を埋めていく。遠目から見れば、下書きをなぞっているかのような――、それほどにシエルの絵筆に躊躇いはなかった。


 客の男にとって、完成を待つ時間はとても短かかった。むしろ、見る見るうちに形を成していく絵に感動すら覚え、それが終わってしまうのが逆に惜しく思えるほどに……。



「はい! でき上がりましたよ!」


 筆を置くと、シエルは大きな声でそう言った。同時に男はハッとする。まるで夢の世界から彼女の声で現実に引き戻されたかのようだ。


 シエルは完成した絵の端――、絵の具のないところを摘まんでお客に見せようとする。しかし、当の男はそれを制して必死に隠そうとした。

 それもそのはずで、完成したその絵はなんと――、艶めかしい女性のヌードだった。




 陽が傾く時間。表通りもより早く、シエルのいる裏通りは夕闇に包まれていった。お客の姿が見えない時、シエルはずっと空を見つめている。

 そんな彼女の左耳がぴくりと動く。どうやらここに近付いてくる足音を聞き取ったらしい。それも、どうやらよくのようだ。


「――おう、シエル! 今日はどんなモンだっ!?」


 彼女の前に現れたのは、大柄で恰幅のいい、浅黒い肌に髭の男だった。なかなかに厳つい顔付で、知り合いでなければ声をかけるのは憚られるだろう。


「オッサン! オッサン、お帰り! 今日は1枚だけ売れたよ!」


「『オッサン』じゃなくて、『おやっさん』な? 何十回言っても直らんな、お前は……」


「うん! わかったよ、! そんでこれが今日の稼ぎ!」


 シエルは薄汚れた巾着袋を取り出して、男の前に差し出す。その中には彼女が今日、お客の男性から受け取った稼ぎが全額入っていた。



「よしよし――、そしたらこいつが、今日のお前の取り分だ」


 「オッサン」と呼ばれた男は、袋の中身を手のひらで確認すると、その一部をポケットに入れ残りを改めて袋に戻し、シエルに返した。


「あれー? あれあれ? オッサン、今日はなんだかあたしの取り分多くない?」


 シエルは巾着袋の重さに違和感があったのか、何度か縦に振ってから中身を確認するのだった。


「いいんだよ。お前、ちょっと前に言ってたろ? もうすぐで目標額に届く――って。どうだ? それでいったのか、目標に?」


 シエルは真ん丸な目をキラキラと輝かせ、口の両端をこれでもかと上げていた。


「オッサン! さすが、オッサンはいいやつ! うんうん! これで目標に届いたよ!」


 飛び上がりそうなほど――、というか、実際に飛び上がって喜ぶシエル。そんな無邪気な彼女の姿を見つめる「おやっさん」は、対照的にどこか寂しそうな顔をしていた。


「――んで、目標に届いたんなら……、やっぱりを出て行くんだな、シエル?」


「うん! あたし、魔族の国に行くから!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る