第5話「多分、本気で恋をした方が演技の上達は早い気がする」
「っ、何、その縁起の悪いスケジュール帳は……」
作曲家としても大活躍中の声優
「んー、落ちたオーディションにバツ書いてるだけですけど……」
声優としてデビューしたところで、そのあとの人生は決して安泰というわけではない。
声優って職業は毎日が就職試験という名のオーディションで、これを一位通過しなければ仕事にありつけない。
「毎日が就活って……本当に辛い業界ですよね」
「しっかりしなさい、新人くん」
この事務所にはいらない宣告される前から、結果が出たオーディションにバツ印を書き込んでいくのが習慣だった。
頑張ってきた証を記したもののはずなのに、オーディションに落ちたイコールその役を演じる機会は未来永劫訪れないって思うと虚しくなってくる。
「そこはバツ印じゃなくて……」
「笹田さん?」
いくら指名で役がもらえたって経験があっても、声優という職業で食べていくためには毎日の就職活動を乗り切らなければいけない。
指名で役がもらえるなんて奇跡は滅多に起きない。
「別に、中身を見るわけじゃないから」
そりゃあ、いつかは奇跡の連鎖の遭遇できるくらいの信頼ある声優になりたいとは思うけど……。
なかなかデビューしたての新人には、とても見えてこない遠い未来に肩を落としそうになる。
「落ちたオーディションはバツ印じゃなくて……」
だけど、そんな俺を救ってくれる先輩がいる。
「丸で囲ってあげるの」
「バツを書くなんて、せっかく和生くんの元に巡ってきてくれた作品たちに失礼」
「それじゃあ、受かった作品は……」
「合格した作品には、何も書かない……あっ! シールか何かで盛大にデコレーション……」
「さすがに男で、それは恥ずかしいです」
「私は、和生くんの声優人生が良い縁で恵まれるように願ってるの」
そんな殺し文句で応対してくる笹田さんは、物凄く頼りになる先輩声優。
たまに見かける泣き顔は芝居ですかって言いたくなるくらい、彼女は今日も最高に素敵な笑顔で俺を元気づけてくる。
「あー……なんか、自分が惨めになっていく……」
「そんなことないから」
何を根拠に、そんなことがないのか分からない。
先輩声優がいてくれることのありがたさを、ここ数日で十分に感じさせてもらっている。
感じているからこそ、笹田さんの好意と優しさを受け取る器は限界量をとっくに超えてしまった。
「かっこ悪くていいのに」
「俺には、見返したい人がいるんです」
その、見返してやりたい相手が、優しい笑みを向けてくれているとか本気で勘弁してほしい。
「私は、和生くんのいろんな表情を見たいけどなー」
「そうやって、世の後輩声優はたぶらかされていくんですよ……」
「たぶらかす? 私は、どんな和生くんでも受け入れたいって話よ」
「っぅ~~~~」
訳の分からない奇声を発しそうになったので、自ら自分の口を塞いで顔を伏せた。
笹田さんはちっとも気づいていないだろうけど、それは後輩声優に絶対言ってはいけない言葉だ。
(俺は、こんなにも笹田さんに追いつきたくて必死にやってるっていうのに……」
本気で、焦っている。
いつになったら、声優、笹田結奈を越えることができるのか。
いつになったら、俺に惚れてくれるのか。
いつまで経っても未来は見えてこないのに、自然と口角が上がってしまう自分に羞恥心が生まれる。
「俺、これからも声優、続けてみせますからね!」
「うん、私は和生くんの声が大好きだから」
俺は笹田さんにとっての後輩声優になれていたんだっていう、安心感。
嬉しさとか、感謝とか、安心感とか。
いろんな感情が混ざり合っている今が、心地よい。
「和生くんは、とっても優しくてとってもかっこいい年下の後輩くん」
「褒め殺しですか?」
「どうして、そんなに悲観的になるの?」
それは、俺が現在お世話になっている事務所との契約が終わるからです。
そうはっきり伝えたいのに、この業界は守秘義務の関係で言えないことが多すぎて辛すぎる。
「和生くんは……」
さっきまで先輩面していた……いやいや、本当に声優業界の先輩ではあるけれど!
調子に乗って先輩面していた笹田結奈はどこにいった。
「私の頼みを受け入れてくれたでしょ」
笹田さんから、笑顔が消える。
笑顔が消えたっていっても、それは寂しいことでもなんでもない。
「これから……」
これ以上言葉を紡ぎ続けていたら倒れてしまうんじゃないかってくらい、顔を真っ赤に染めていく笹田さんが俺の目の前にいる。
そして、とうとう恥ずかしさの限界を超えたらしく、彼女は俺から目線を逸らし始める。
「私に……」
そんなに恥ずかしがって言うことでもないのに、演技力の向上レッスンですら恥ずかしがってくれるところが正直、可愛いと思う。
「好きって感情を……教えて……?」
これが惚れた弱みかとか考えるものの、ここで笹田さんに心まで持って行かれてしまったら『笹田結奈を見返すぞ計画』が破綻してしまう。
「言っておくけど、俺の方から誘ってないですからね」
「女の子から誘わせるのも……どうかと思うけど……」
「誤解されるような言い方、本当にやめてください」
「うぅ……」
瞳を潤ませながら、俺を見上げてくる笹田さん。
女の子が精いっぱいの勇気を振り絞っての告白中ですと言わんばかりの懸命さが宿る表情を見ていると、こっちまで照れ始めてしまうから非常に困る。
「こんなお願い……和生くんにしかお願いできなくて……」
声優って職業に従事している人たちは、みんな質が悪いと思う。
「今日も…………」
自分はいい声だって自覚がない人がほとんどなのに、いい声で人を誘惑してくるのだから、物凄く迷惑だと俺は思う。by 元声優オタクをやっていた俺。
「私に……恋人というものがなんたるかを教えてください!」
自分が知らない
「嫌……?」
頼み方や言い回しが、妙に少女らしくて背徳感すら感じてしまう。
(罪悪感が半端ない……)
俺は、これからこのいたいけな女性に何をしなければいけないのだろう。
「私、なんでもするから」
これが普段の会話だったら。
これが普段の笹田さんだったら。
年上の笹田さんが年下の俺をからかっているんだって分かる。
だけど、演技の特訓をしようとしている彼女は至って真剣。
自分が、どんなとんでもない発言を繰り広げているか分からないくらいの天然っぷりを発揮する。
二歳の歳の差しかないはずなのに、男を誘惑する言葉をたくさん持っている笹田さんの将来が心配になる。
「今日は……何するんですか?」
「和生くん」
瞳をきらきらと輝かせて笹田さんだけど、そこは喜ぶところでもなんでもない。
喜ぶタイミングを完全に間違えている笹田さんは、俺に内緒で用意していたクーラーボックス的なものを引きずってくる。
そんなに重たい物は入っていないと思われるけれど、俺の目の前にクーラーボックスを持ってこようとする笹田さんは一生懸命で、そんな姿を見ているとマジで可愛いな! この人! とか思い始めてしまうあたり、俺はかなり重症かもしれない。
「本当は外でデートをしてみたいけど、それは難しそうだから」
「待て、待て、待ってください!」
「遊園地とかテーマパークに行ったと妄想して、アイスクリームを食べましょう」
鈴音さんスタジオの中でも飲食が可能なスペースに俺たちはいるものの、彼女が提案してきた食べ物が恋人同士のデートを連想させるから恥ずかしい。
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