第6話「どちらが声優業界で生き残れるかっていう勝負の始まり」
「
「ボイスレコーダー使ってもいい?」
「……どうぞ、どうぞ」
これが普段の会話だったら、これが普段の
なのに、デートって言葉が付属してくると妄想がはかどりすぎて頭が可笑しくなりそうだった。
「これ、お互いに食べさせ合った方がいい……?」
「すみません、俺に尋ねられても答えは出てきませんよ……」
ボイスレコーダーを使おうとなんだろうと、俺たちはアイスクリームを食べるだけだ。
前回みたいに、身体的な触れ合いがないだけいいとしよう。
「んー、本物の恋人同士って、何をするのかしら」
「だから、俺に聞かないでください」
「水着イベント……は、なしね」
「ですね……
笹田さんも俺も、どこからどう見ても自分で選んだ好きな味のアイスクリームを食べているだけ。
目の前で繰り広げられている出来事は、誰がどう見ても可愛い女の子がアイスクリームを食べているだけでしかない。
「これ、多分、俺に対するセクハラかもしれません……」
「どこが?」
アイスの美味しさに感動したいっていうのに、素直に感動できない環境下に呆然としてしまう。
声優
同じ屋根の下で暮らすってことは、俺にとっては過激な展開過ぎて脳内での処理が追いつかない。
「え、え? アイスを食べているだけ……」
「笹田さんが、本物の恋人同士とか言うからですよ!」
意識している。
めちゃくちゃ、意識している。
笹田結奈が自分の彼女だったらって妄想が、俺に羞恥の気持ちを与えてくる。
「あ! ここは公園って体にして、膝枕でもする?」
完全に恋人ごっこのことを放置して、俺のことをからかい始めているって分かってしまった。
彼女なりに企みを持って挑んではいるんだろうけど、笹田さんの含みある笑顔が可愛すぎて真正面から彼女のことを受け止めきれない。
「その言葉、責任とってくださいね」
「え?」
その可愛らしい声で男を誘うのは、いい加減やめてもらいたい。
だけど、笹田さんという子は本当に本当に誰もが認める人気急上昇中の声優。
そんな彼女の声を独占できているのかと思うと、本気で怒る気も失せてきてしまう。
「膝、借りますよ」
「え、え、和生くん!」
その、怒る気力が失せてくるっていうのが一番宜しくないのかもしれないけど。
「和生くん……」
椅子に座っていた笹田さんの手を引いて、膝枕できるような体勢になってもらう。
「和生くん……」
「顔、真っ赤にしないでください! 男なんて、勘違いしやすい生き物なんですからっ!」
「恋人同士なら! 照れても、恥ずかしがってもいいと思うけど……」
「っ」
ただ、膝枕をしてもらっているだけ。
それなのに、互いに目も合わせられないくらい恥ずかしがっているってどういうことだ。
「……付き合いたての恋人は、こんな感じなのかな」
「知りません。恋愛初心者同士に、答えなんてものは存在しませんから」
膝枕。
誰がどこから見ても男が女性に膝枕してもらっているだけだと安堵したいはずなのに、笹田さんの腿が想像以上に柔らかい。
笹田さんが女性だってことを自覚してしまうと、頭が次第に混乱していくのが自分でもよく分かる。
「和生くん……」
防音スタジオは冷房が効いているけど、俺の体温が上がっているせいで冷房もなんだか意味がない気すらしてくる。
この恋人ごっこが終わる頃には、せっかく笹田さんが用意してくれたアイスクリームは跡形もなく解け去ってしまうかもしれない。
「和生くん、私……」
負けていられない。
いろんな意味で負けていられないって思うのに、俺は一生笹田さんには敵わないと思ってしまう。
「私の声に……反応……して……?」
「っ……」
笹田さんは、自分の声が武器だなんて思っていない。
声優をやっているからって、自分の声が大好きとは限らない。
だから、質が悪い。質が悪い。質が悪い!
天使のように可愛らしい笹田さんが、悪女にすら見えてきてしまう。
「和生くん……私の声……ちゃんと届いてる……?」
俺と笹田さんは、彼氏彼女の仲じゃない。
それなのに、俺の心は笹田さんでいっぱい。
(あー、悔しい)
これから先もずっと、俺はこの魅力的な先輩声優のことを忘れられないと考えるだけで腹立たしくなってくる。
「笹田さんも、俺の声、聞いてくださいよ……」
「え……」
俺なんて……
俺は仕事で一緒にならない限り、笹田さんに記憶してもらうことすら叶わない新人声優。
だから、悔しい。腹立たしい。
この先輩声優が凄すぎて、また心がボキッと織られてしまいそうになる。
「俺は、高校のときから笹田結奈さんのファンだったんですって……」
自分の言葉は、届かない。
自分の声も、届かない。
だけど、笹田さんの言葉はちゃんと届く。
笹田さんの声は、ちゃんと響く。
俺は笹田さんを引き留めることができないけれど、彼女には俺の聴覚も心も全部を奪い去ってしまう力がある。
「私のこと……嫌いにならないでください? 貴樹先輩……」
笹田さんは俺のことなんて構いもせずに、相手の心を満たす芝居と声を仕掛けてくる。
「
恋人ごっこは、表現力を向上させるための特訓だったということを思い出す。
「貴樹先輩は私のことを、ただの年下の女の子としか見てくれないから……」
声優として食べていくために、俺たちは『好き』という感情を知る協定を結んだ。
「手……震えているの……分かりますか?」
自分の手が、笹田さんの手に誘われる。
「こんな恥ずかしいこと……誰にもやったこと……ないですから……!」
俺は現在どういう態勢になったかというと、笹田さんに押し倒されている。
いや、正確には、ひま咲かに出てくる望海ってキャラクターに押し倒されているっていうのかなー……。
「貴樹先輩……少しは……ほんの少しは……ドキドキしてくれていますか……?」
俺の心臓は壊れてしまうんじゃないかってくらいの速度で動いている。
それでも笹田さんは作品の世界に入り込んでいて、恐らく俺のことなんて気にしてもいないだろう。
この人の心臓は、どれだけ強固にできているんでしょうか。
「先、輩……」
この特訓が、早く終わってほしい。でも、早く終わってしまったら、笹田結奈さんから学ばせてもらうという唯一の機会を失ってしまう。
(じゃあ、終わってほしくない?)
ずっとこのままを続けてしまったら、俺は笹田結奈さんを越えるって目標をいつまでも達成することができない。
「私のことだけ、見てください」
押し倒されたかと思ったら、今度は抱き着かれる。
笹田さんの心音が伝わってくるみたいで……とか心で綺麗な表現を浮かべてはみるものの、この後に続くセリフはなんだったっけって冷や汗が止まらない。
誰も、ひま咲か主人公のセリフを丸暗記しろとは言っていない。
けれど、主人公のセリフが止まってしまったら俺は笹田結奈に完全敗北してしまう気がする。
「貴樹先輩の心臓に……触れてもいいですか?」
こんな本音を零してしまったら、主人公は引いてしまうかもしれないという不安を抱えている望海。
それでも、望海は主人公に触れたいって切実な気持ちを零してくる大事なシーン。
「私で、いっぱいになってください」
大好きな人に手を伸ばしたいって思う望海が、恥ずかしい気持ちを押さえ込んで精いっぱいの勇気を振り絞る。
「私を……満たして……ください……」
俺が何を言ったって、俺が何をしたって、笹田結奈は振り向いてくれない。
あー、もう、振り向かせてみたい……!
望海のセリフを、そっくりそのまま返してやりたい。
笹田結奈さんの頭を、一瞬でいいから主人公一色で満たしてやりたい。
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