第5話「家族だから、心配する」
(そう遠くには行っていないはずだけど……)
だけど、辺りを見渡しても汐桜ちゃんの姿は見当たらない。
(汐桜ちゃんの足が速いってこともあるだろうけど……)
汐桜ちゃんが財布を置いていったことは、すぐに気づいたつもりだった。
だから、こんな姿形もなくなるくらい汐桜ちゃんの行動が速いってことも考えにくい。
(え? まさか誘拐とか……?)
自分が住んでいるところは、そんなに治安が悪かっただろうかと背筋が凍りつきそうになる。
だけど、辺りが賑やかすぎる時間帯に女子高生を誘拐するなんて出来事が起きたら、確実に目立ってしまうことは間違いない。
(誘拐以外に考えられるのは……)
汐桜ちゃんの足が物凄く速いってこと。
それはそれで考えられることだけど、俺にはある建物の存在が頭を過った。
(まさか、ファンの人に声をかけられたとか)
過去と現在の
週刊誌の記者や、声優のプライベートを知りたいファンが森村荘に集まってくることもある。
それでもマナーのいい声優ファンの方に守られているから、
(汐桜ちゃんくらいの人気なら、ストーカーの一人や二人……)
肩を上下させながら、乱れていく呼吸を落ち着かせようと試みる。
けど、冷静になろうとすればするほど、頭の中は冷静ではいられなくなる。
「いや、考えるよりも行動に移した方が……」
体力に自信がある方でもなく、足が速いってわけでもない。
それでも、人が連れ込まれそうな細い路地を覗き込みながら汐桜ちゃんを探す。
「ラブホテル……」
森村荘を離れれば離れるほど、高校生が近づいては行けなさそうな通りにも足を運ばなければいけなくなる。
覗き込んだ通りから目を逸らしたくもなるけど、汐桜ちゃんが神隠しのように突然姿を消した理由が気になる。
(せめて私服に着替えてくるべきだった……)
さすがにラブホテルの中に潜入して、汐桜ちゃんがいないかどうか確認することはできない。
(俺の声優人生、こんなところで終わりたくない……)
汐桜ちゃんを探しているだけのはずなのに、どうして後ろめたい気持ちになるんだろう。
何も悪いことはしていないのに、そんな気持ちが湧いてくるのはどう考えてもラブホテルに原因があるとしか思えない。
自分の身に災いが降り注ぐ前に、さっさと用件を済ませた方がいいかもしれない。
「嫌、だから!」
ラブホテルに汐桜ちゃんがいるかもしれないなんて、そんな予感が当たるわけがないと思っていた。
でも、そういう予感に限って当たってしまうところが恐ろしくもあって……。
「抵抗するとか、時間の無駄だから。さっさと入って」
「私は、もう、こういうのは……」
男の人から強く腕を引っ張られて、無理矢理ラブホテルに連れ込まれそうになっている汐桜ちゃんを発見する。
「俺は心配してるんだよ、汐桜のことを」
「そんなの、心配とは言わない……!」
真っ先に止めに入ろうと思っていた。
だけど、二人を止めに入る前に思うことがあった。
(汐桜ちゃんの彼氏……って可能性も……)
汐桜ちゃんをラブホテルに引き込もうとしている男性は、めちゃくちゃイケメンだった。
モデル業とかやっていても可笑しくないだろう外見をしている男性に男の俺でも目を奪われてしまうけど、汐桜ちゃんが嫌がっている以上は彼氏だろうとなんだろうと止めないといけないと思った。
「俺以上に汐桜のことを気にかけている人間、この世にはいないよ?」
「っぅ、嫌!」
こういうのをお節介と言われるかもしれないけど、汐桜ちゃんは抵抗している。
ここで彼女を見放すって選択をしたくない。
(それにしても……あのイケメンさん……どっかで会ったことがあるような……)
どこかで会ったことがあろうと、汐桜ちゃんの彼氏であろうと、知り合いが嫌だと抵抗を示していることに巻き込まれそうになっているのは見ていられない。
「っ、汐桜ちゃんっ!」
俺の存在に気づいていない二人に向かって、俺は自分の声を二人に届くように飛ばした。
「……
人の往来が激しい時間帯ではあるけれど、そんな人混みの騒音に自分の声は負けていなかったようだった。
俺の声に反応してくれた汐桜ちゃんは、見られたくないところを見られたと言わんばかりに目を泳がせてしまっていた。
「汐桜ちゃん、行こう」
「和生さ……」
本当は汐桜ちゃんの事情を聞いてから行動に移すのがいいと分かっていたって、無理にでも汐桜ちゃんの手を引いて男の前から連れ去る。
「ヴォイクスに所属している、
爽やかな男性の声だと思った。
そんな爽やかな声で俺の名前を呼ぶ人物なんて、この場には一人しかいない。
この声の持ち主は汐桜ちゃんをラブホに連れ込もうとしていた、あのイケメンしか考えられない。
「えっと……」
汐桜ちゃんの左手を握りしめたまま、俺は足を止めてイケメンを振り返った。
「お久しぶりです、声優事務所
どこかで見覚えがあると思っていたら、彼は俺に迷うことなく答えをくれた。
「以前は、弊社のタレントがお世話になりました」
俺がモデル並みのイケメンと知り合いなわけがなくて、このイケメンは声優事務所STEAのマネージャーさん。
どこかで会ったことがあるようなレベルの話じゃなくて、俺は水越さんにご挨拶させてもらったことがある。
「ヴィクス所属の……本田坂和生です。お久しぶりです」
自分は、まだヴォイクスでお世話になっている声優だ。
それは間違いなく事実なのに、自己紹介をするのに間ができてしまった。
こんなときまで、契約が切れるってことが頭を過る。
「僕は、汐桜の……」
「兄です……」
ほんの少し弱々しい汐桜ちゃんの声。
「汐桜、それじゃあ妹をラブホに連れ込もうとしている変態お兄さんになっちゃうんだけど」
「事実でしょ?」
「そんな悪人扱いしなくてもいいんじゃないかなー?」
この場の空気が凍りついていくのが分かる。
仲の悪い兄妹って考えれば説明がつくのだけど、それだけではラブホに妹を連れ込もうとしていたお兄さんの説明にはならない。
「でも……そうだね。今回は引き下がって、またの機会にしようかな」
「あの……それって、どういう意味……」
「和生さん! 私のことなら気にしないで大丈夫ですから!」
汐桜ちゃんの言っていることはもっともで、俺が勝手に兄と妹の関係に出しゃばっていいわけじゃない。
そんなのは分かっているけど、また汐桜ちゃんが危険な目に遭うっていうのなら放っておけない。
「そんなに睨みつけなくても大丈夫ですよ。汐桜を傷つけるようなことだけはしないので」
お兄さんが言っている言葉には不穏な空気を感じさせるのに、お兄さんは大切な妹を見守るかのような優しい笑みを浮かべた。
「むしろ僕、妹のことが大切すぎるくらいシスコンなんですよね」
「シスコンだったら、もっと汐桜さんのことを大事にしてください」
「本田坂さんも、自身のことを大切にした方がいいですよ」
お兄さんの柔らかな視線は、妹の汐桜ちゃんへと向けられる。
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