第6話「未来が見えないから、正直、何をどうしたらいいかなんて分からない」

汐桜しお。プロだったら、本田坂ほんださかさんに迷惑かけるような行為は慎みなさい」


 声優の俺が憧れてしまうような清涼感漂う綺麗な声で、お兄さんは汐桜ちゃんに話しかけていく。


「汐桜がやっているのは、本田坂さんの未来を潰す行為だよ」

「っ……」

「優しい人を頼るのはいいけど、その優しい人の未来まで潰すつもり?」


 お兄さんは、汐桜ちゃんに話しかけるときだけは営業ボイスを使わない。

 兄から妹に話しかけるかのように、厳しくもあり優しさも含んでいる声という印象があった。


「妹が迷惑かけました」


 お兄さんは、この場から立ち去ろうと俺たちの横を通り過ぎようとする。

 その通り過ぎる瞬間を見計らって、お兄さんはこんな言葉を残していった。


「本田坂さんが妹のこと大切にしてくれなかったら、それこそ許さないので」


 爽やかだけど、どこか俺を威圧してくるかのような低い声が俺の聴覚を刺激してきた。


「妹のこと、よろしくお願いします」


 そして去り際の爽やかな営業ボイスと共に、汐桜ちゃんと手を繋いでいない方の手に何か小さなプラスチックのような物を手渡された。

 それが何かを確認する前に、お兄さんは俺たちの前から姿を消してしまった。


和生かずきさん! 和生さんっ!」

「あ、ごめ……」


 無理矢理繋いでしまっていた汐桜ちゃんの手を開放しようと思ったら、汐桜ちゃんは逆に俺の手を更に強い力を握り締めてくれた。

 それはまるで離さないでくださいと言われているかのような錯覚を与えるくらい、強く握り返された。


「馬鹿ですか! 馬鹿なんですか!」

「え?」


 アニメの中でしか聞いたことのないような汐桜ちゃんの罵声に、俺は目を丸くしてしまった。


「こんな……いかがわしい……ところに! 制服姿で来るなんて、本田坂さんは大馬鹿です!」


 一分一秒でも早くラブホテルから遠ざかった方がいいと言わんばかりに、汐桜ちゃんは繋がれた手に力を込めて俺のことを誘導していく。


「俺が財布に気づかなかったら、汐桜ちゃんは……」

「お財布なんて、置いてきてくれれば良かったんです!」


 いくら汐桜ちゃんが私服姿とは言え、俺は立派に高校生の制服を着てしまっている。

 こんな状態の二人がラブホの前でウロウロしてしまうのは、確実に宜しくない。


「私の未来なんて、どうにでもなります」


 普段は可愛らしくて愛らしい声なのに、自分の気持ちをちゃんと表現するときの汐桜ちゃんの声は力強かった。


「どうにもなるなんて言い方しないでほしい」

「舐めないでください。私は、大人気声優になる予定の人間です」

「だったら尚更だよ! 人気があるからこそ、手遅れになることもある……」

「なりません! そんなこと、絶対にさせないんですからっ!」


 汐桜ちゃんに招かれた場所は、どちらかというと人気が少ない近所の川付近。

 さすがにプロの声優をやっている男女二人が、大声で喧嘩するには向かない場所。

 俺たちは互いに落ち着こうと、それぞれが言いたい言葉を飲み込んで冷静を装った。


「でも」


 先に言葉を発したのは、汐桜ちゃんの方だった。


「和生さんの未来が崩れてしまったら……私には、どうすることもできません……」


 そして、汐桜ちゃんは俺と繋いでいた手を放した。

 汐桜ちゃんの温もりがなくなってしまった手をどうしたらいいか分からなくて、俺は一瞬空で自分の手をさ迷わせてしまった。

 そのとき感じた冷たい空気は、益々俺の口を固く閉ざしてしまっていくような気がした。


「本当に……ごめんなさい……」

「いや、でも、何もなかったから大丈夫……」

「何もなかったから大丈夫じゃないんですよ? 何か起きるのすら防がないと、私は私のことを助けてくれた和生さんのことを守ることができないんです……」


 これは、どっちが悪いのか。

 どっちも悪くないとも言えるし、どっちも悪いとも言える話。

 俺たちは高校生でもあって、プロの声優として仕事をさせてもらっている立場。

 どんな理由があったにせよ、ラブホテルなんて場所に近づくことすら避けなければいけない立場だ。


「私、お兄ちゃんに言われるまで、和生さんが制服を着ていたこととか……全然気を回すことができなかったです……」

「それは、俺が気をつけるべきことで……」


 たいして親しい仲でもないのに、汐桜ちゃんはお兄さんに言われた通り、俺のことを気にかけてくれる。


「お兄さん、森村荘に住んでる人を試したかったのかな」

「え」

「いや、なんとなくだけど……お兄さん、俺のこと敵視してるようで気にかけてくれたから」


 俺の声優人生がどうなろうと、汐桜ちゃんにもお兄さんにもなんの支障もない。

 ラブホテルの前で事が進まないように、お兄さんはちゃんと配慮してくれた。

 今も今で、俺は汐桜ちゃんに気にかけてもらってる。

 似た者兄妹に、俺は高校生って立場も新人声優って立場も守ってもらった。


「二人は、心が通じ合っている兄妹だなーって思った」

「それだけは絶対にありません!」

「ははっ、そっか」

「どうして、ここで笑いが起きるんですか」


 全力で否定する汐桜ちゃんだけど、お兄さんの言葉の意図を汲み取って行動できるところは素直に凄い。

 汐桜ちゃんが社会に出たときに困らないように、ご家族が汐桜ちゃんのことを想って育ててくれたんだろうなってことを思う。


「でも……そうですね」


 汐桜ちゃんは、流れる川の方へと目線を向けた。


「あの人は、ああ見えて……私のこと、考えてくれているんです」

「…………ん?」


 ん?

 あの人って言うのは、もちろん汐桜ちゃんのお兄さんのことを指すわけで……。


「違いますよっ! 兄妹でラブホに行く仲とか、そういう話ではなくてですね!」

「そ……そうだよね! そうだよね!」

「そうですよっ!」


 とんでもない発想をしていた俺のことを気にして、こっちの方を振り向いてくれた汐桜ちゃん。

 だけど、俺を見てくれたのはほんの僅かな時間。汐桜ちゃんは再び川辺へと視線を向けた。


「本当……ある意味では、いい……お兄ちゃんなんです……」


 俺たちの横を流れる川へと目をやっている汐桜ちゃんの表情は見えないけど、汐桜ちゃんの声だけはちっとも明るいものではないってことだけは分かる。

 自分で言っておきながら、言葉に自信が持てていないような……そんな感じ。


「確かに、凄くいい人なのかもしれない」

「え?」

「俺、水越みなこし……陽世はるせさんとは、二回……かな。それくらいしか会ったことないのに、名前覚えてもらってたんだなーって」


 ほかの事務所のマネージャーさんのことを思い出せなかった情けない俺に対して、陽世さんはちゃんと俺のことを記憶してくれていた。

 人の名前を覚えることも仕事のうちと言われればそれまでだけど、一日で何人、何十人と仕事をさせていただくような職場だから。ただ単に、汐桜ちゃんのお兄さんの仕事ぶりは凄いと思う。


「俺、プロとしての自覚が足りてないなーって思った」

「それは……兄の仕事だからであって……」

「お兄さんのこと……立派な人なんだなって。そう思ったよ」


 的外れなことを言っているかもしれないけど、あの場で誰かが冷静でいなかったら俺は人生を駄目にしていた可能性が高いのは事実。


「あー! もう!」


 汐桜ちゃんは川向こうに自分の声を飛ばすかのように叫んだ。そして、俺の方を振り返る。


「あの人、外面だけは完璧なんです! もう、本気で尊敬しますよね! 分かります! 分かります! すっごい分かります!」


 俺の言葉に賛同する割に、汐桜ちゃんは頭を下げて謝罪のような態勢になった。


「でも……助けてくれて、ありがとうございました」


 汐桜ちゃんは深々と頭を下げて、俺に顔を見せてくれない。


「本当に、ありがとうございました」


 聞こえてきた声は、俺の聴覚を魅了する。

 仕事場でもなんでもないのに、汐桜ちゃんが発する言葉を聞き惚れてしまう。

 それだけ汐桜ちゃんは、普段から言葉を大切に扱っている人ということ。

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