第3話「声優という職業を選ばなければ、まだ子どものままでも許された?」

「俺は、笹田ささださんを見返すって決めた……」


 溢れる独り言は前を向き始めた気がするのに、体が重くて嫌になる。

 風邪を引いた気配なんてどこにもないのに、なんだか体は不調そのもの。

 普段やらないようなことをやって、体調不良に繋がればまだいいのかもしれない。

 けど、実際に体が重いように感じるのは、声優として食べていくことへの不安が脳裏を霞めていくからだと自覚はある。


(夕飯も、ちゃんと食べないとだよなー……)


 精神的なものが、こんなにも体の負担になるとは思っていなかった。


和生かずきくん」


 こんなんじゃ全然駄目で、これじゃあ次に笹田さんと顔を合わせたときに笑われてしまう。

 気合いを入れ直そうとしたときに、相変わらず先輩声優笹田結奈さんは俺を救いに現れてしまう。


「あ……笹田さんも、もう夕飯終わったんですか」


 理想とは程遠い現実に打ちのめされそうになっている自分が、益々格好悪くなっていく。

 見えなくなった未来の中で強引にでも前を向こうとするって、思っていた以上に怖い。


「和生くん、顔色が悪い気がするんだけど」


 森村荘の住人たちが暮らしている住居の方になんとか足を運びたいのに、俺が見返すと決めた相手は俺を一人にさせてくれない。


「高校が終わってから事務所に寄ったので、少し疲れちゃっただけだと思います」

「本当?」

「本当ですよ、嘘なんて吐いたって笹田さんにはお見通しでしょ?」


 俺の言うことを信じられないのか、笹田さんの厳しい視線が突き刺さる。

 でも、それ以上は追及するつもりがなかったらしい。俺を見つめる瞳が、いつもの優しいものへと変わっていく。


「仕事と勉強の両立って、本当に大変」

「笹田さんだって、二年前まで現役高校生声優だったじゃないですか」


 まだデビューして半年とはいっても、自分は役者。

 何もありませんよって嘘を吐く芝居くらいは、軽くこなせるようでありたい。


「その大変さが分かるから、和生くんは頑張ってるなって」

「笹田さんも、頑張ってきたってことですよね」

「ありがとう。和生くんも、来年は大好きな芝居に打ち込めるといいね」


 笹田さんに改めて励まされると、自分は本当に大きな舞台にやって来たんだなってことを再確認する。

 事務所からいらないって宣言された身でも、ちゃんと声優をやれていたんだってことを自覚する。


「私の新人時代には考えられないくらい、和生くんは次々と快挙を成し遂げていくから……」

「俺には未来があって、自分には未来がないような言い方しないでください」


 笹田さんを必要としている人たちがいるから、笹田さんは声優で食べていくことができている。

 メインキャラを支えるポジションに比重が置かれた人生だとしても、今ある環境に感謝しているからこそ、笹田さんは声優としての需要が今もある。

 周囲が与えてくれるものに感謝できるからこそ、次の仕事に繋がることができる。

 笹田さんなら、それくらいのことを分かっているはず。


「私と和生くんは同じ声優って職業に従事しているけど、歩み方が違うのは明白」 

「でも、演じるキャラクターに価値の差なんて……」

「うん、関係ないよ。声のお仕事は声のお仕事」


 メイン級の役を演じる人たちの方が偉いとか、そういうことじゃない。

 メイン級の役を演じられる人の方が偉くて、モブキャラクターを演じる人たちには価値がないとか、そういうことじゃない。それなのに、笹田さんは話を続けていく。


「私が言いたいのは、世間からの評判」


 笹田さんが凛とした声を発する。

 下に向きかけていた視線を上に引き上げられて、俺はやっと笹田さんの顔をちゃんと見ることができた。


「これから和生くんは、どんなジャンル問わずアニメ業界で活躍していく存在」

「そんなこと……」

「うん。でも、謙遜しないで最後まで聞いて」


 森村荘に住む先輩声優のみなさんは優しすぎる人が多くて、俺の異変になんてすぐ気づいてしまう。

 顔を見られたくないって思っていたって笹田さんは、君は顔を下に向けるべきじゃないって言っているかのように諭してくる。


「私はどんなにギャラのランクが上がっても、キャラクターを頼むなら笹田結奈がいいって思ってもらえるような役者を目指す」


 笹田さんは、俺の心の中を覗く能力を持っているのかもしれない。

 そんな能力を持っているわけがないけど、俺が事務所に所属できないことを知っているんじゃないかって思ってしまうくらいの特上の言葉をくれる。


「ギャラのランクが上がっても重宝される、そんな声優になりたい」


 俺の中で揺らぎ始めている芯を見抜いて、自分が持っている確固たる芯を声と言葉で魅せてくる笹田さん。素直にかっこいいと思う。


(こんな風に……俺だって……)


 笹田結奈さんを見返すために声優になったって、現実は笹田さんに勇気づけられてばかりで嫌になる。

 自分は笹田さんよりも人生経験がなくて、自分は笹田さんよりも年下ってことを嫌でも理解してしまう、この瞬間を情けないと思う。


「和生くんの人生は、自分一人の人生じゃなくなってる」


 自分一人の人生じゃないって言葉が、とても重かった。


「自覚してね」


 とんでもない重さの言葉が投げられて、受け取ること態勢すら整っていなかったけれど。


「私には未来がないような言い方をしたのは、和生くんの方だから」

「すみません……」

「私にだって和生くんにだって、未来はあるんだから」


 未来はある。

 本当に?

 そう勘ぐってしまうけれど、今は笹田さんがくれるすべての言葉が嬉しくて謙遜も反論もできない。


「背負う荷物を減らしたいなら、声優っていう職業自体をお勧めしない」


 声優と名が付いていたって、声優は芸能界を形成する職業の一種。

 生涯声優で食べていきたいと願ったところで、誰もその願いを保証してくれないってことを笹田さんは言いたいんだと思う。


「事務所の推しがあるうちに結果を出すのが、新人声優に与えられる最初の課題ですよね」


 俺が言葉を返すと、笹田さんは十色といろさんに負けず劣らずの眩しすぎる笑顔を俺の記憶に残した。

 俺たちの初対面サイン会で笹田さんは綺麗に笑うことすらできていなかったから、こうして貴重な笑顔を拝めたことに元気づけられていく。


「俺……もっと頑張りたいです」


 悩みのない人間なんていない。

 誰もが悩みを抱えて、それと向かい合って生きているはず。


「それ以上頑張って、これ以上オーディションで受ける役が被っても困るんじゃない? と、世間の新人男性声優が文句を言っている姿が思い浮かぶわね」

「あはは……うん……困ってもらうくらい、頑張りたいです……」


 それなのに人はいつしか、こんなに辛いのは自分だけなんじゃないかって思い始める。

 他人の幸せは、自分にとっての大きな不幸だっていう思い込みが始まる。


「和生くん」


 和室の造りになっている部屋に用があるらしくて、襖を開けようとした笹田さんは少し大きめの声を出した。

 少し大きめの声でしかないのに、響きがいいものだから俺は声をかけてくれた笹田さんに見入ってしまう。


「もっと芝居、上手くなった方がいいと思う」


 淡々と言い残していく言葉ではないと思う。


「……精進します、先輩」

「和生くんが元気じゃないと、周囲がいろいろと心配するから」


 気づかないままで良かったっていうのに、笹田さんのような鋭い人に下手な芝居は通用しないのだと死刑宣告される。


「めちゃくちゃダサいですね……俺……」

「和生くんは、最初からダサかったと思うけど」

「っ、こっちの努力も知らないで……」

「ふふっ、ごめんなさい」


 いつも通りに振る舞っていたはずなのに、それはすべてお芝居でした。

 そんな気づいてほしくないところに気がつく人間がいるってことに、なんだかいろんな感情がごちゃまぜに湧き上がってくる。

 気づいてくれてありがとうって言いたい気もするし、そっとしてほしかったような複雑な気持ちもある。

 だけど、やっぱり、自分は一人じゃないんだって感覚を受けたことに酷いくらいの喜びを感じてしまう。

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