第5話「俺は真っ当にラブコメなんてできないと思う」
「すみません! 本当に申し訳ございません!」
心臓を触られている
「全力で謝罪します! 本当にごめんなさい!」
彼女がどんな表情をしていたかとか、彼女が凄く嫌がっていなかったかとか、そういう配慮が一切できないまま、初めての恋人ごっこに溺れてしまった。
「……かな……」
「え?」
「あの……」
目の前にいるはすなのに、笹田さんの声が小さくて何を言っているか聞き取れない。
「やっぱり、健康体の人がやるものではないのかも」
「…………ですね」
ゲームの主人公はヒロインに好意を抱き始めている場面の練習のため、俺はなんとなく主人公の気持ちを体験することができた。
けど、笹田さんにとっては好きでもない男から心臓を触られたようなもの。
この後、警察に突き出されてしまうという展開が待っていても可笑しくはない。
「あの……」
「だから俺、役に立たないって……」
彼女の同意があったようでなかったような行為に俺は及んでしまった。
さようなら、こんなところで俺の声優人生は終わってしまう。
「あの……でも……緊張はしたよ……?」
頬に両手を押し当てて、俺と視線を交えることができなくなっている笹田さんが目の前にいた。
「ほらっ、心臓の音が凄く速くなって……」
この、森村荘防音室事件。
笹田さんのとどめの一言で、幕を下ろすことになった。
「あんまり近づかないでほしいんですけど……」
スタジオに着くまでの移動時間、俺はぶつくさと呟きが止まなかった。
「
「原因が分からないときは、謝らないでください」
「ごめんなさい……」
笹田さんは好きでもない男に心臓を触られて、何も感じなかったという感想を述べてほしかった。
最後に緊張したという感想は、好きでもない男に対して絶対に言ってはいけない。
(振り向かせるはずが、翻弄されてるとか情けなっ)
防音室でとどめの一言が放たれた直後、俺は笹田さんに心臓を撃ち抜かれた。
でも、肝心の笹田さんは、そもそも自分が何を口にしたのかすら覚えていないと思う。
「……これくらいなら、いい?」
「…………はい」
森村荘から、駅まで移動するだけのこと。
だけど、大人気声優笹田結奈の隣を歩く新人声優ってネットに書き込まれて、俺が笹田さんの株価を再び下げてしまうかもしれない。それくらい森村荘は多数の人気声優を輩出している有名どころ。
「もう少し近づいても……」
「……どうぞ」
誰が住んでいるのか知られているくらい有名な場所でもあるから、声優
それでも俺は、笹田さんと距離をとるように気を遣う。
俺は新人声優で、彼女は有名声優なのだから。
「これくらい?」
「……はい」
ある程度の距離は保っている。
だけど、会話できない距離ではない。
こんな風に言葉を交わし合っていれば、俺たちの関係は知り合いだということが周囲に分かってしまう。
ある程度保たれた微妙なこの距離に違和感を抱きつつも、俺たちはスタジオを目指して歩を進めた。
「あの……さっきは……」
「その話、続けるんですか……?」
「あ……その……ありがとう」
明るさを含んでいて、可愛らしさ抜群の笹田さんの声が弱っている。
原因は分かっている。
俺にあるんです! 俺に!
笹田さんの俺への好感度が低すぎるあまり、笹田さんが望んでいる経験を提供できなかったことがすべての原因なんですよ!
「俺、お礼言われるようなことしてないですよ」
「ううん、あんなお願いを叶えてくれた時点で、和生くんは神様級の優しさだと思う」
「仕事に勤しんでいる人は、永遠に恋愛ができないのかもしれませんね」
「でしょ? 恋愛に現を抜かす新人声優とか、考えられないんだけど」
とんでもない頼み事をした自覚はある、と……。
「アイドル声優って、なんか、大変そうですね」
「大変?」
「いちいち周囲の目を気にしなきゃいけないからです」
「周囲の目というよりは、仕事が好きすぎて……人を好きになる余裕がないだけの話よ」
笹田さんの声に、いつもの調子が戻ってくる。
ああ、やっぱり彼女には、こうやって元気を振りまいている毎日の方が似合っている。
とんでもないお願いしてくる彼女もそれはそれで魅力的だったけど、笹田さんの満面の笑みにはやっぱり敵わない。
「いつも私のことを助けてくれて、ありがとう。和生くん」
仕事と真摯に向き合う彼女のことも好きだけど、こういう素の表情を見ることができることにも嬉しさを感じる。
「これから、和生くんも大変になると思うから」
「俺ですか?」
「事務所から推されているって意味、理解しなきゃ」
先輩声優、笹田結奈から与えられた言葉。
「
さっきまであんな恋人もどきごっこを繰り広げていた彼女とは思えない発言に、俺は身を引き締める。
「今日は誰々と一緒に森村荘を出て、誰々と一緒に森村荘に帰ってきた……とか、ね」
笹田さんの言う通り、近々俺の声優としての知名度が上がるかは分からない。
そんなのやってみなきゃ、未来は何も見えてこない。
「まあ、誰が住んでいるかはバレバレなので、こんな風に気を遣うこともないかもしれないけど」
だけど笹田さんは今から、ちゃんと自分の行動には責任を持てと言いたいのだと思う。
森村荘は、声優ファンの人たちにとっては監視対象の場所だから。
「人気声優かぁ」
「嫌カノに出演した和生くんの未来は明るいはず」
「ありがとうございます」
声優の仕事だけで食べていくだけでも大変だっていうのに、そこに人気声優になるって目標が加わってくると更に困難な道を歩き始めることになる。
それでも、笹田結奈を見返すぞ計画を始動させたからには、いつか笹田さんの収入を追い越してみたいと思う。
「これからも、和生くんに頼りっぱなしというわけにはいかないなー」
「…………ん?」
俺は今日一日だけで、何回笹田さんの言葉を聞き返したことか。
「え、あの……笹田さん?」
「何回か練習を積み重ねたら、きっとヒロインの気持ちを理解できるようになるとは思うんだけど」
「…………ん?」
なんだか恐ろしい展開になってきた。
いや、ある意味では美味しい展開?
いやいやいや、違うよ! 違う! これは美味しい展開でもなんでもない!
新人声優の俺にとっては、ちっとも美味しい展開ではない!
「待った、待った、待った!」
「和生くん?」
まるで、焦っている俺の方が可笑しいんですか? と言わんばかりに、不思議そうな眼差しを向けてくる。
「あの特訓……まだやるんですか?」
「そうだけど」
これは、戸惑っている俺が間違っているんですか?
さも当然かのように、例のあの特訓をまたやりましょうって誘われる展開になっているんだろうか。
「あ……和生くんは……嫌? もう、私に飽きちゃった?」
俺の横を歩きながら、まるで捨てられた子猫のように瞳を潤ませてくる笹田さん。
話の内容と、今の俺たちを笹田さんファンに目撃されたら、なんて弁明したらいいのだろう。
「私……和生くんともっと……」
この人は、一体自分が何を口にしているか分かっているのだろうか。
理解していないからこそ、こんなに男心をくすぐるようなことを言えることかもしれない。
「もっとお芝居の勉強をしたいの」
そこは、ちゃんと小声になっていて、そこだけは偉いと褒め称えたい。
「恋をするって気持ち、ちゃんと知っていきたいから」
目標があるのは大変素晴らしいことだと思う。
けれど、ここら周辺を笹田さんファンがうろついているかと考えるだけで気が気じゃなくなってしまう。
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