第4話「先輩声優に翻弄されてばかりはいられないのに」

「関係者各位に相談することもできなくて……」

笹田ささださんに、そういう発想があってほっとしてます」


 笹田さんの仕事関係者に、こんなとんでもないことを相談するつもりだったのか。

 彼女が思い留まってくれて良かったと素直に安堵し、そっと息を吐き出した。


森村荘もりむらそうに住んでいる人なら……絶対に秘密厳守してくれると思って……」

「……まあ、うん、多分、少なくともスキャンダル沙汰にはならないでしょうね」


 何もやましいお願いを託されているわけでもないのに、心臓の音がどくんどくんとうるさく聞こえてしまう。

 芝居の練習に後ろめたさなんて必要ないのに、俺だけが頭を抱えている状況からなんとか解放されたい。


れんさんは売れっ子過ぎて、巻き込むわけにいかなくて……」

「うん、正しい判断だとでしょうね」

大翔ひろとくんには……くだらないって一喝されそうで……」

「それも正解だと思います」

湊馬そうまくんは……存在そのものが怖くて……」

「ああ……」


 つまりは先輩の男性声優や後輩の男性声優に、そんな初々しい笹田さんの願いを託すつもりだったらしい。


「唯一、十八禁の作品に出演しているひそかさんは人気アイドルゲームに出演されているから……ファンの方に申し訳なさすぎて……」

「それで一番売れてない俺のところに来たってことですか!」

「ごめんなさい……」


 俺が選ばれたからくりが消去法だと分かったところで、はいそうですかと返事できるわけがない。

 かといって笹田さんが求めている、を金で買わせるわけにもいかない。

 笹田さんの周囲の人たちに相談できる内容でもないことも分かっている。


「……どうしましょうか」

「お願い! どうしようかって悩む次元の話ではなくて、ここはもう私を押し倒す勢いで……」

「その口、閉じてください」

「はい……」


 笹田結奈ささだゆいな

 アイドル業界を舞台にしたゲームアプリにも出演していて、定期的にライブイベントにも出演している。アニメやラジオのレギュラーだってかなり抱えている。

 俺みたいな新人声優なんかとは、人気も知名度も比較にならないほど凄い先輩声優。


「今から彼氏を探す暇があったら、台本を読みたいの……!」


 ここで俺がどんな言葉を返しても、笹田さんは人をからかうような性格をしていない。

 何も心配することはないはずなのに、頼みごとの内容が内容なだけに、何が正解なのかと探してしまう自分がいた。


「声のお芝居、もっともっと上手くなりたいから」


 個人名義で音楽活動をしているわけではない。

 わけではないけれど、こんなにも外見が可愛くて声まで可愛い彼女には大勢のファンがいるだろう。

 どんなにネット上で炎上したとしても、笹田結奈が可愛いってことに変わりはないのだから。


「手を出して……俺……殺されませんか……」

「手を出すって言っても、恋人ごっこがしたいわけじゃないの」

「似たようなものだと思います」

「何をやるにしても、私は炎上しちゃってる身。殺される心配はないと思う」


 本来なら心に閉じ込めておかなければいけなかった言葉が、口からポロっと零れてきた。


「私は、一人で声優業界を戦い抜かなきゃいけない身分なの」


 たとえで、目が輝いているようだなんて表現を使うときがある。

 でも、笹田さんの瞳は本当に希望に満ち溢れているかのように輝きを放ち始めた気がする。

 話題にしているのは炎上騒ぎの話なのに、笹田さんには一人で生き抜く覚悟があるから怖くなる。


「で……俺に何をしろと?」


 さすがの笹田さんでも、そうそう激しい要求はしてこないと踏んだ。

 いくらない経験を求めているとは言っても、最後まで致すような事態にはならないと思っている。

 そこまで笹田さんは馬鹿ではないだろうし、自分が売れっ子声優だという自覚ももちろんあるはず。


「心臓を触ってもらえる?」


 やっぱり、この人は馬鹿なのかもしれない。


「いやいやいや、ここは台本の読み合わせに付き合うとか、そういう流れに……」

「許可を得る前に読み合わせをしたら、守秘義務の関係で私が和生くんの事務所に怒られるでしょ!」


 台本を読むことと、笹田さんの体に直接触れること。

 どっちの方が罪深いのかと考えれば……。


「心臓に触れられたときの、ヒロインの気持ちが分からなくて……」


 この人は、さっきからなんて発言を繰り出してくるのだろう。

 俺の思い込みでも笹田さんを高く評価し過ぎているわけでもなく、笹田結奈は間違いなく誰もが認める人気声優。


「私は健康体だから、余命もののリアルさを感じてみたいの」


 笹田さんが言った通り、余命ものの作品で心臓に触れ合うって流れはなんとなく理解できる。

 でも、健康な人の心臓に触れてもいいんですかって躊躇いは、どうしても生まれてきてしまう。


「ということで、お願い」


 両手を広げて、俺を迎える気満々の彼女。

 その表情はかなり真剣なもので、その真剣な眼差しは仕事のときに見たかったよ!

 なんてことを心の中でツッコんでみる。


「あの……」

「あ、心臓の場所分かる? 左右反対だと、よく分からなくなるから……」


 だ・か・ら!

 そういう物語に出てこなさそうで、出てきそうなリアルぎりぎりを攻めた発言は慎みなさいと言いたい。

 それなのに、彼女がいちいち真面目だからツッコミたいこともツッコめない。

 もう、笹田さんの扱いをどうしたらいいのか誰か教えてほしい。


「ここ……かな……」


 自分の右腕を持ちあげられる。

 俺の右腕に、そっと触れてきたのはもちろん笹田さん以外にはいないわけで……。


「……っ!」

「ごめんなさい……心音、多分、凄いことになってると思うけど……」


 笹田さんが謝る必要がどこにある。

 それこそまた笹田さんの発言にツッコミを入れたいところだけど、今の俺はそんな状況ではない。


「あの……えっと……分かる……?」


 笹田さんは遠慮がちに、声も控えめにそんなことを言ってくる。

 彼女に誘導された右腕は、もちろん笹田さんの心臓へと辿り着いた。


「…………ぅぅ」


 恥ずかしくて堪らないのは笹田さんの方で、再び顔が火照り出した笹田さんは視線をどこかへとさ迷わせる。

 だけど、どうぞ自分の心臓を好きなだけ触ってくださいと言わんばかりに笹田さんは俺の右手を開放してはくれない。


(…………心音、凄っ……)


 ごくごくありふれた感想だと思う。

 でも、初めて触れた他人の心臓の音の速さに驚かされた。


「ここ、かな……」


 笹田さんに導かれるまま、服の上から彼女の心臓に触れる。

 笹田さんが死ぬなんて展開にはならないはずなのに、こっちの心臓が痛みを訴えているような気がする。

 彼女の心臓の音に触れるってだけで、なんだか切ない気持ちに駆られてしまう。


「好きな人に、心臓を触ってもらうって……こんな感じなんだ」


 その、笹田さんの声で奏でられる言葉がセリフっぽい。

 おかげで、もうすぐ笹田さんが死んじゃうんじゃないかって疑似的な体験ができている。

 ぶっちゃけ、笹田さんだけじゃなくて、俺も物凄く貴重な経験をさせてもらっているんじゃないかと思えてくる。


(なんで先輩声優の心臓に触らないといけないんだよ!)


 目の前で顔を赤らめる笹田さんが、本当に死んでしまうんじゃないかって感覚に泣きたくなる。

 芝居が上手くなるための偽の恋人ごっこで、ここまで感情を煽られるとか結構やばい。


「和生くんっ……」


 ここで主人公は、ヒロインに名前を呼ばれる。

 そして、思考は現実へと引き戻される。

 これが物語だったら、そんな展開になる。

 でも、そんな物語の世界みたいな出来事を、俺と笹田さんは体験した。

 これが、嘘の恋人ごっこ。

 これが、人を好きになるって感覚……感覚……感覚……感覚?


「ごめんなさいっ! 俺、いつまで触って……」

「っぁ……はぁ、大丈夫……ありがとう……」


 さすがに、長時間に及んで笹田さんの心臓を触り続けたかもしれない。

 いくら彼女から許可を得て彼女の心臓に触れていたとはいえ、限度の時間というものはあるに決まっている。

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