第6話「恋心を黒歴史に変えた先輩声優と同居しています」
(早く寝たいはずなのに、ちっとも眠れる気がしない)
声優の
そして、その相手役を俺が担当することになった。
なんていうか、そのことで頭がいっぱいになりすぎて頭の中がぼんやりとしている。
(俺が、笹田結奈さんの彼氏役……)
コミュニケーションを取るのが苦手だった高校時代から脱却したばかりということもあって、不慣れな食直会の席はただただ疲労感を感じる場でしかなかった。
そんな疲れと相まってか、笹田さんと相手役を務めるということを現実だと感じられない。
「ただいま帰りました……」
なんとか帰路を辿って
森村荘にお世話になって、早一年と少し。
森村荘って名づけられてはいるものの、
一軒家の賃貸って言うのかもしれないけど、一軒家を数人でシェアしているのだからシェアハウスって言うのかもしれない。
でも、森村香耶乃さんっていう管理人さんと一緒に生活しているのだから、寮って言い方もあっているかもしれない。
とにかく正式な名称に関しては今も、よく分かっていない。
「っ、うぅ」
森村香耶乃さんは、家族を亡くしたことで莫大な遺産を受け継いだ。
家族を亡くしたってところは辛かっただろうけど、香耶乃さんは受け継いだ遺産全てを大好きな声優業界に注ぐと前向きな思考に切り替えることができる女性だった。
声優業界で働くプロ声優を応援すると決意してくれたおかげで、香耶乃さんが相続した広大な住居と莫大な遺産が現役声優たちを支援してくれることとなった。
「って、笹田さん!」
「
誰が入ってくるかも分からない玄関の入り口に、現役声優の笹田結奈さんは寝そべっていた。
まるで酔い潰れたような雰囲気で廊下に倒れ込んでいるけど、さっきまで一緒にいた店でアルコール飲料は提供されていない。
「笹田さん、ほら、そんな脚ばたばたさせると見えますから!」
「っぅ、ごめんなさい! 下着を和生くんに覗き込んでもらおうとか、これっぽっちも思ってなかったから」
「もっと言葉に恥じらいを持ってもらえますか……」
誰も下着を覗き込んでいましたなんて言っていない。
下着が見えていないって言ったら、それはそれで嘘になるけれど。
スカートの下に穿いている物が直接見えたなんて、言えるわけがない。
「ほら、こんなところで横になったら、風邪引きますよ」
「お父さん? それとも、お母さん?」
「どっちでもなくて、後輩です。ほら、意識がちゃんとしているなら、ちゃんと立ってくださいよ」
たくさんの人が、森村荘を出入りしたと聞いている。
たくさんの人が、夢を実現させるために森村荘を訪れたと聞いている。
男女問わず。
「大体、森村荘に住んでいる誰が笹田さんと俺を陥れようとしてるんですか」
「下着の一枚や二枚、どうってことないってこと?」
「俺が笹田さんの下着を見たところで、世間の人たちには美味しいネタになるだけだから流出すらしませ……」
「っ、やっぱり見たのね……」
涙目になっている彼女を可愛いと思ってしまう気持ちをぐっと抑えて、大きな声を出す準備を整える。
「見てません! 見てませんからっ!」
この森村荘は、ある意味では全国的に有名な場所。
「
「監視って……」
「みんながみんな、ストーカーに狙われているようなものよ」
「うーん……それは、ごく一部の人たちだけだと思います」
香耶乃さんのおかげで、今や森村荘は人気声優を高確率で排出する場所となっていた。
だからこそ、ネットやSNSで交わされる話題には持って来いの場所が、この森村荘。
「誰が入居していて、誰が退去して行ったのか。残念ながら情報が筒抜けなんだから」
「それはまあ、否定しません」
安値で住まわせてもらっている上に、この森村荘出身者は高確率で有名になることができる。
そうなれば、プライベート情報の一つや二つが漏れたからって文句は言っていられない。
「森村荘歴が長くなってくると、感覚が麻痺してきちゃいそう」
プライベート云々よりも、こっちは声優業界で食べていけるようになることの方が重要なのだから。
プライベートなんてあってないようなもの。
俺たちのプライベート情報は、将来に向けた投資ってやつなのかもしれない。
「プライベートは、守られるべきもの」
俺が差し出した片手を支えにしながら、笹田さんはゆっくりと立ち上がる。
乱れた髪を手櫛で整えたり、スカートに寄せられた皺を直そうとする仕草を見ていると、どんなに廊下で寝転んでいても女性なんだなぁって思う。
「未来の宝が住む場所、森村荘……ね」
自信がなさそうな物言いだけど、笹田さんの表情は穏やかで優しい。
未来にたくさんの希望を抱いて生きていることが彼女の笑顔を通して伝わってきて、過去に炎上騒動に加担した身としてほっと肩をなでおろす。
「和生くん」
「すみません、考えごとしてて……」
「お夜食に、パンケーキを所望いたします」
笹田さんと向かい合うことで、改めて気づくことがあった。
泣き腫らした後。
真っ赤な目。
明日の仕事に差し控えそうなくらい、泣いたんだなってこと。
「アイドル声優が夜食にパンケーキですか?」
「和生くんの作るパンケーキは、お砂糖の量を調整してくれるので安心して食べられるの」
「それ、多分、大丈夫じゃないですよ」
「ふふっ」
夜っていう時間帯に見られるような笑顔じゃない。
まるで太陽を思い起こすような眩しさある笹田さんの笑顔に魅入って、そして俺に懐いてくれる笹田さんの声に聞き入ってしまう。これは決して恋心なんかではなく、職業病ってやつだと思い込む。
「食べても太らないですか?」
「ライブイベントがぎっしりなおかげで、体を動かす時間が多いから」
プロの顔をしているなーって、漠然とそんな風に思った。
「来月はガルフォニアのライブイベントでしたっけ?」
「私のスケジュール、覚えててくれたの?」
「っ」
何気ない言葉のやりとりってことに油断しすぎた。
今でも笹田さんが出演するイベントのスケジュールを把握しているなんて、口が裂けても言えない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます