第28話 沈黙の戦場

「指揮官は自分の役目を放棄したも同じです」

 バートンはそう言う。

「同情には値しますが……」


 プリシラは無表情のまま、首にかかっている金鎖をいじった。あまりに強く、何度もいじるので首に赤いあとがついている。


 リリーはシーツを替えると言って、天幕の外へ出ていった。


「私が軍に攻撃をさせたら、叔父はエミリーを殺すわ」


 今のプリシラにはとてもエミリーを犠牲にすることなどできないのだった。ピーターの打ちひしがれた背中を見るのが怖かった。だが、このまま叔父の思惑通りに行動すれば、戦に負け、皆を危険にさらすことになるだろう。


 すでに女王軍の兵士たちの間では不審がる者もいた。なぜたった一人の女のために攻撃をやめてしまったのか。



 真夜中、プリシラが頭を冷やそうと川辺を歩いていると、暗闇から手が伸びてきて口を塞がれた。


「僕だ、トリスタンだ。リリーから居場所を聞いたんだ」


 二人はゆっくりと離れて向き合った。はるか遠くの放牧地でススキが揺れている。冷たい夜風が首筋をなでていった。空には赤く大きな満月が浮かんでいた。


「リリーね」

 プリシラが名前を繰り返す。

「大勢が死んだわ」


「僕の仲間は今も死んでいる」

 トリスタンが静かに言った。


 プリシラの唇が痙攣する。戦場は想像していたよりもずっとひどい場所だった。血や肉片が飛び交う場所。破壊と殺人の場所、まるで希望も再生もなくって……


 多くの兵士たちが死んでゆくのを見ていた。栄光も名誉もない、泥まみれの地面で剣に倒れる。死体は山のように重なって焼き払われるか、ハゲタカに食われるか。


 父に会いたかった。父の胸に飛び込んで思う存分泣きたい。せめて、もう一度父の手を握ることができたら……!


「あなた、血が出てるわ」

 プリシラがそう言ってトリスタンのこめかみをハンカチでおさえる。

 

 トリスタンはハンカチを持つプリシラの手にそっと触れた。

「大丈夫、そんなの擦り傷だ」

 プリシラの声にどうしようもない不安を読み取ったのか、彼の声は優しい。

 

 プリシラはわっと泣き出して、トリスタンに抱きついた。

「私戦争に負けるんだわ。すべてが終わってしまった後に、叔父に引きまわされて見せ物にされるの。それでみんなの慰み者よ!」


 それはプリシラがここ数日考えていた中で、一番最悪なシナリオだった。重荷を背負っているピーターに話すこともできず、かと言ってリリーに相談するにもプライドが邪魔する。一人で思い悩めば悩むほど、心配は大きくなっていった。


「君は負けないよ。どうするべきか、わかっているはずだ……」


「エミリーは完璧な人なのよ」

 トリスタンの声を打ち消して言う。

「あんなにも堂々としていて綺麗で、頭が良くて……」


「君だって完璧だ!初めて見た時、妖精が現れたのかと思った……。それに、君が愚かで人の言いなりになるような娘だったら、こんなふうに生き残れてたと思うかい?今頃檻の中だったはずだ……」


 トリスタンは穏やかな口調で話し出した。兵士たちの間で噂が広まっている。女王と騎士のピーターが特別な関係なのだと。それも一線を越えた関係なのだと……。


 そういう類の噂は女王の権威を失墜し、トリスタンの夫としての名誉を傷つける。兵士の士気にも影響し、戦況に深刻な結果をもたらすだろう。


「でもエミリーはピーターの大切な人なのよ、最愛の人なの!」

 プリシラが悲痛な声で訴えた。


「エミリー一人のために僕らの軍を全滅させるつもりかい。そんなことはできないって君ならわかってるはずだ……。ピーター・ドールは戦場から退けなければならない。彼は婚約者のかわりに君を危険にさらしてるんだ」


 不意に「夫の権利を行使する」という考えが脳裏をよぎった。結婚初夜に兄に言われた通りに……。二人きりだった。誰もプリシラの声を聞きつけはしまい。川辺でプリシラを犯す。彼女はトリスタンを怖がり、憎むかもしれない。あるいはすっかり無抵抗でトリスタンの陵辱を受け入れるかもしれない。


 いや、プリシラを襲ったところでどうにもならないだろう。プリシラはニコラスやトリスタンの指の間をまたすり抜けていく……

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